第3話 守るべきもの
「ここで勇者は言いました。戦った者は皆……」
絵本をめくる音が、病室に優しく響く。窓の外には桜が舞い、青空をピンク色に染め上げる。しかし、ここだけは季節に取り残されたように、静かな時間が流れていた。
「……莉子、お姉ちゃん……」
小さくかすれた声が、物語の一節に入り込んできた。莉子は顔を上げると、ベッドの上で布団にくるまった弟の葵が、細い目で莉子を見ている。
「葵、どうしたの? 痛い? 寒い?」
「ちがう。……無理、しないで」
心電図モニターの音が遠ざかる。さっきまで聞こえていた音が、意識から薄らいでいく。代わりに、莉子の心臓の音が速度を上げて鼓膜に響く。
「……無理なんて、してないよ」
莉子はいつものように笑って見せる。でも、その笑顔が引きつっていることを、葵は誰よりも知っている。
「ぼく、わかってる。お姉ちゃん、笑ってないときの顔……いっぱい見てきたから」
ベッド脇の椅子に座ったまま、莉子は俯いた。絵本を持つ手に、少しずつ力がこもる。
強くならなきゃ、と莉子は思った。泣いてしまえば、葵を不安にさせてしまう。
(私だけでも、葵を守らなきゃ)
ーーたとえ自分がどれだけ傷ついても。
*
あの日から、莉子の日常は途絶えた。両親が事故で亡くなり、まだ幼い弟と、頼れる大人のいない世界で二人きり、無惨に取り残された。
公的機関や福祉の手続き、入院費、生活費……あらゆる現実が、莉子の肩にのしかかった。
すがる思いで開いた求人サイトには、【日給高額・住み込み可・秘密厳守】特別家政婦契約という、今思えば怪しい掲示。しかし、それすらも、当時の莉子にとっては一縷の望みに感じられた。
面接会場には、スーツを着た女性と、白衣を着た医師が立っていた。
「我々が提供するのは、弟さんの高度治療と、お二人の生活、学業の支援。それと、あなたの“守りたい”という願いを叶える手段です」
目の前の医師は、淡々と書類を読み上げた。
「代償として、当財閥が所有する屋敷にて、特別家政婦に従事していただきます。契約期間は、弟さんの健康が維持されるまでの間。途中、破棄や違反時には……」
そこから先の言葉を、莉子はもう覚えていない。
(あの子が生きてくれるなら……私の自由なんて、いらない)
「……やります」
震える声で告げると、機械音と共に、何かが起動した。莉子はどことなく不気味な気配を感じ、胸に当てた手を握りしめる。
「あなた、適性、ありますね」
冷淡な声で言い放った女性が、契約書を机に広げる。
提示された命令は三つ。
「ご主人様の命令には、絶対服従」
「屋敷のことは、誰にも話してはならない」
「誰のものにも、なってはならない」
ペンを握ると、手が震えた。けれどその手を、葵の温もりが支えてくれていた気がした。
契約書にサインをすると、機械から「契約成立」という声がした。同時に、腕から背中にかけて薄緑に光る痕が彫り込まれ、莉子の身体はじんと熱を帯びた。
(これが、服従の証。この命が、この身がどうなっても、葵が生きられるなら……私はなんでもする)
そう決意して、この屋敷の門をくぐった。
*
屋敷の廊下は、足音や扉の開閉音だけが妙によく響く。静かすぎる空間に、時折誰かの視線を感じることがあった。ーー誰もいないはずなのに。
水曜日のご主人様、泉理仁の部屋は、三階東棟の最奥にある。五人のご主人様は、曜日順に東棟の一階から三階、西棟の一階と二階に自室を構えていた。
泉財閥は表向きでは軍事、重工業を担っているが、政治工作、特殊機関との連携に長けており、界隈では「影の実力者」と一目置かれている。
そんな泉財閥の長男、泉理仁は干渉を嫌い、必要以上に話しかけてこない。最初のうちは、挨拶も当たり前のように無視されていた。莉子に興味を持たず、命令もしない。その重い空気が、いつも莉子の息を詰まらせた。
重厚な扉の前で、莉子は深呼吸をする。
「失礼します」
いつも通り返事はない。たが、それが入室の許可を得たということだ。そっとドアを開けると、微かなインクの香りが漂った。
床は黒檀、机や本棚は無駄のない配置。窓際には重たげなカーテンがかかり、夜でなくてもほの暗い。泉は机の椅子に腰かけ、本を読んでいた。
莉子の入室に、視線ひとつ動かさない。
(いつも通り、掃除だけして、帰る)
莉子はモップを持つと、床を端から順番に掃除していく。床掃除が終われば本棚の埃取り、机の上の書類整理や文具補充、いつものように丁寧にこなしていく。
ふと、机の上の書類が傾きかけていたのを見つけた。邪魔にならないよう、泉の後ろからそっと手を伸ばして直そうとしたとき、体勢を崩しかけた。
(いけない、理仁様の肩に当てってしまう……! 集中されているのに、怒られ……)
バランスを立て直そうとするも、莉子の身体は泉の背中に寄りかかってしまった。慌てて体勢を戻す。
「も、申し訳ありません! バランスを崩してしまって……その、お怪我はありませんか?」
咄嗟に謝ると、ピクリと動いた泉の肩に莉子は身体をこわばらせた。きっと怒っている……莉子の顔が青ざめていく。
「あ、あの……ご、ごめ……」
「机の上の書類には触るな」
俯いていた莉子の頭上から、低い声が降ってきた。泉は振り返ることもなく、莉子を見ようともしない。
「はい……」
冷たく言い放たれた言葉に、莉子は身を縮こませた。掃除は終えたので、はやく部屋から出ようと机から離れようとした時、左手首を掴まれた。
「ひゃっ」
「この傷はどうした」
昨日、神城の奉仕の時に、ティーカップの破片で切ってしまった指。絆創膏が貼られている。
(心配、してくださっているの……?)
泉が莉子に興味を示すのは初めてで、戸惑いつつも、他のご主人様の奉仕の時にできた傷だと知られてしまうのが居た堪れず、口が動かなかった。
「……大方、神城にでもやられたんだろう」
莉子の腕を掴む力が強くなる。
「いっ……」
「あいつら、命令すれば従うと思っている。くだらない」
「そ、そんなこと……それに、この傷は私の不注意で……」
「お前も、命令に従えば良いと思っている。もっとくだらない」
無慈悲な言い方に、手首がかすかに震える。そんな莉子の様子を察したのか、泉はため息を吐くと、パッと手を離した。
「邪魔だ。出ていけ」
莉子は唇を噛みしめると、急いで掃除道具を持って部屋を後にした。泉はいつも冷たいし、言葉数も少なくて、感情が伝わってこない。心配してくれていると勘違いした自分に顔が赤くなる。
あんな言い方をされて、莉子は悔しかった。そして、何も言い返せない自分にも腹が立った。ただ耐えるしかないとわかっていても、無力な自分が歯がゆい。
莉子は葵の言葉を思い出し、なんとか自分を奮い立たせるように震える足を踏みしめた。
守るべきもののために、今は耐える――必死にそう自分に言い聞かせた。
*
夜、メイド部屋に戻った莉子は、小さなベッドに腰を下ろした。この瞬間だけが、一息つける唯一の時間だった。
メイド服のボタンを一つ外した時、どこからか視線を感じた。
(また……? なんだろう)
恐る恐る視線の先を追うと、ふと、視界の隅で、何かが光った気がした。天井の隅に、小さな点のようなものが、ぼんやりと赤く光っている。
(あれ……なに……?)
よく見ようと立ち上がり、背伸びして覗き込むと、それは確かに「レンズ」だった。
──監視カメラ。
見つけた途端、莉子の顔から血の気が引いた。
(い、いつから……? どれだけの間……?)
震える手を抑え、その場に立ちすくむ。思い返せば、ここに来てからの毎日、誰もいないはずの空間で、ふと「見られている」ような感覚があった。
でもそれは、莉子の思い過ごしなんかじゃ、なかった。
(全部、誰かに、見られてたの……?)
慌ててボタンを留め直す。屋敷のセキュリティが万全なのは知らされていたが、自室にも監視カメラが付いているなんて、聞いていない。この状況で、身支度をしたり、目を瞑って眠らなければいけないことに、恐怖する。
(この屋敷は、普通じゃない)
莉子は無意識に自分の身体を抱きしめた。
*
風や虫の音も聞こえない、薄明かりが灯る自室で、ソファにもたれて眠っていた男が、ゆっくりと目を開けた。
天海朔は、自室の一角にある小部屋へ入ると、ぼんやりとした目で大量に置かれたモニターのひとつを見やる。画面の中には、就寝前の莉子が、寝巻きに着替えようとする姿。
その手が止まり、天井のカメラを見上げている。
「ふっ、気づいちゃったんだ。へぇ」
ふわりと肩をすくめ、悪びれる様子もなく天海は笑う。笑いはひどく楽しげで、まるで可愛い動物実験の反応を楽しむようだった。
「でも、大丈夫。ちゃんと見られることに慣れていけばいいよ、ね?」
画面越しの莉子の表情は、強張ったまま動かない。
モニターの前で、天海はただ、にこにことそれを眺めていた。
「可愛いな、観察ってほんと飽きない」