第26話 ラベンダーの芳香②
※この話数には流血・嘔吐描写があります。苦手な方はご注意ください。
「……莉子ちゃんに、何したの」
紫鷹の前には、嫌悪感を剥き出しにした蓮巳が立ち塞がっていた。紫鷹は困ったように短く息を吐く。
「蓮巳くん、こんなところで何をしているんですか? はやく教室に戻りなさい」
「……質問に答えて」
「さぁ、なんのことかわからない。すまない、これから授業があるので、先に失礼するよ。君はいつも授業に出ずに、出席簿を教師に書き換えさせているね。そんなことをしなくても、蓮巳財閥の権力があれば、出席日数など取るになりないものだろう。嘘の上書きをする癖を治したほうが良い。最も、それが拠り所になっている時点で、君はもう終わっているが」
紫鷹は涼しい顔で蓮巳の横をすり抜ける。――と同時に、足を止めて低い声色で小さく呟いた。
「その黒革の手袋。それがないと君はあれに触れられない。無様なものだ」
その言葉に、蓮巳は目をカッと開いた。歯を食いしばり、全身を震わせる。歯の隙間から、スーッと怒りが漏れている。しかし、それも紫鷹には関係のないことだった。
(怒りの感情の過剰表出。自己制御ができない欠陥品)
「君はごっこ遊びをしているに過ぎない。良い加減、自覚をするといい」
紫鷹はそう呟くと、何事もなかったかもように校舎へ戻ろうと歩き出した。その瞬間――蓮巳の両手が紫鷹の背中に襲いかかった。
しかし、紫鷹は瞬時に振り向くと、蓮巳の両手を片手で容易に掴み上げる。もう片方の手で、蓮巳の黒革の手袋を躊躇いなく外した。
ガサッと手袋が地面に落ちる。蓮巳の細く白い指が露わになった。
「あぁ、あ……う、うわぁぁ、あぁぁぁ!!」
蓮巳の息が荒くなったかと思うと、何かに取り憑かれたように大声で叫び出した。紫鷹の手から逃れようと暴れ出す。だが、紫鷹の力は強く、びくともしない。蓮巳の目からは大量の涙が溢れ出す。
「離せ、離せ……!! 手袋をさせろ! 手袋がないと、僕は、僕は……」
蓮巳の叫び声が小さくなっていく。次第に、シクシクと嘆く声だけが、木々の中で響いた。蓮巳は足の力が抜けて、地面に座り込む。蓮巳のシルクのような美しい髪が、濡れた頬にベールを纏うように垂れ下がる。小刻みに震えるその両手だけが、紫鷹に掴まれて宙に浮いていた。
「君はこれと同じことをあれにもしていただろう」
「……うっ……知らないっ……」
「まずは嘘に塗りたくられた自分の存在を変えていくところからだ」
「……っ……うっ……」
紫鷹は呆れたように蓮巳の両手を離すと、スーツのポケットから眼鏡を取り出し掛け直す。やや乱れたスーツを直し、校舎へと再び歩き出した。
(蓮巳千尋、被験体の鞄にGPS装置内蔵。黒革の手袋を外した際の精神錯乱。――要注意)
嗚咽する蓮巳をそのままに、紫鷹は振り返ることなく、風で揺れる木々の影へと静かに消えていった。
*
(僕のことを馬鹿にした……僕の自尊心を傷つけた)
蓮巳は地面にへばりつきながら、止まらない涙を土の付いた手で拭った。泥くさい匂いが染み付いていくのを感じる。
涙を自分の意思で止めることができなかった。初めて、身体が心を裏切った。――それがこんなにも恐ろしいことだと、蓮巳は知らなかった。
蓮巳の白く美しい指が、頬に添えられる。グッと、爪で自分の頬を引っ掻く。頬から首まで、生ぬるい血がつたう感覚が気持ち悪かった。
(僕は……誰……)
この気持ち悪さに耐えきれず、胃から酸っぱいものが込み上げる。「うぇぇっ」と胃の内容物を吐き出す。
「て、手袋……!」
地面に落とされた手袋を拾い上げると、すぐに両手に付け直す。土と血が手に付いていて、不快だった。しかし、手袋をしない方が、蓮巳にとっては生きた心地がしないほど苦しい。知らない男に手袋を無理やり剥がされることは、蓮巳にとっては侮辱と同様だった。
「……あぁ、莉子に会いたいよ。また後ろから抱きついて、僕の中で怯えてほしい……僕より弱くて脆い、可哀想な子……僕はあんなのとは違う。僕は……嘘なんかついてない」
蓮巳は残された力でふらつきながらも立ち上がると、ドアの前に置き去りにされた莉子の鞄を、泥と血が染み込んだ手袋で拾い上げる。莉子の鞄に顔をつけて、大きく息を吸う。
「はぁ、莉子の匂い。はぁ……」
まだ莉子の温もりがそこには残っていた。鼻腔を満たす清らかな甘い香りに、うっとりとする。蓮巳の青白い顔が、高揚していく。頬が赤紫色に染まる。
蓮巳はその場にしゃがみ込むと、しばらくの間、泥と血にまみれた莉子の鞄をぎゅっと抱きしめていた。自分の中の動揺が落ち着いていくのがわかる。
「……夢の中の、男」
ぽつりと、掠れ声が漏れた。以前、蓮巳が夢でみた男と、紫鷹は同じ声をしていた。
「……」
唐突な沈黙が場を支配する。風で木々の揺れる音がやけに響いていた。
蓮巳の目元に影が覆う。涙と泥と血でぐちゃぐちゃに汚れた美しい顔が、歪んでいく。頬からぽたりと血が滴り落ちる。
(あいつ、ずっと莉子を監視してたやつだ。そんな匂いがする)
「……ハッ」
蓮巳はペッと口の中の泥と血を吐き出すと、口角を引き上げた。不気味で、妖艶な仕草。艶かしい唇の隙間が、大きく動いた。
「ハッ、アハハ! 僕はずっとお前に会いたかったんだよ。ねぇ、僕まで汚した気分はどう? 気持ちよかった? 嬉しかった? この胸の高鳴りが一生忘れられない? ねぇ、ねぇ!!」
蓮巳は莉子の鞄を地面に叩きつける。何度も、何度もそれは繰り返された。蓮巳は笑っていた。紫鷹という自分を汚した存在に興味が湧いていた。
「許さない……でも、そうだね。僕の前で跪いてくれたら、許してあげないこともないかな」
莉子の鞄が投げ捨てられる。ボロボロの制服でふらりと歩き出した蓮巳は、まるで壊れた人形のようだった。
*
莉子は天海に抱きかかえられ、送迎用の車に乗せられた。牛革のシートが心地良く身体に合わせて沈む。
隣には天海の綺麗な横顔。薄く形の整った唇に自然と目がいってしまい、莉子は屋上でのことを思い出して、カッと顔が赤くなる。
「何? 今、僕の唇を見てたよね。またあの治療、してほしかった?」
天海の視線と言葉に、心を読まれている気がして、莉子はそっと目を逸らした。無意識にきゅっと自分の唇を結留める。その反応が「はい」と言っているようなものに感じて、恥ずかしくてさらに頬が熱くなっていく。
「帰ったら、ちゃんと話聞くから。それまでここで休んで」
「は、はい……」
天海は莉子の膝に自分のジャケットをかけると、窓の外を気怠げに眺めていた。
莉子の身体の震えは、時間と共に自然とおさまっていた。莉子は安心したのか、知らぬ間に目を瞑り、天海の肩に寄りかかっていた。天海は気づかないふりをしてくれていたのか、何も言わなかった。
あの時……紫鷹が莉子の目の前にいて、天海の手首を容赦なく掴んでいた。天海の苦痛に満ちた表情に、莉子は自分の心まで鷲掴みにされたような痛みを感じて、居ても立っても居られずに、衝動的に身体が前に動いていた。
紫鷹とは、目を合わせなかった。目を合わせてしまえば、自分の身体が完全に固まってしまいそうな気がした。……それがどうしてかは、莉子にはわからなかった。
(それに、あの香り……)
ラベンダーの香りが、鼻の奥に残っている。小屋の真ん中にある机の上に置かれたラベンダーの切り花。飾られているというよりは、ただ置かれているだけのように見えた。
(どこかで嗅いだことがある気がした。でも、思い出せない……)
あの時、莉子は嗅いだ瞬間、危険に誘われるような胸の苦しさに襲われた。それと同時に、不思議と懐かしさのようなものが、身体中に広がっていた。
(あれは、一体――)
考えれば考えるほど、意識が遠のいていく。莉子は天海の温かい肩に身を預けたまま、深い眠りに落ちていった。
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※次回更新日9/15(月)




