第20話 毒は愛を肥やしに①
※この話数には、トラウマを想起させる描写があります。苦手な方はご注意ください。
「……りこ……莉子……君は……私のものだ」
目を覚ました蓮巳は、ゆっくりとベッドから上体を起こす。額には、ほんの少しの汗が滲んでいる。
夢をみた。知らない男が莉子の名前を呼んでいた。知らない男が莉子は自分のものだと言っていた。知らない男の、その言葉に、目を覚まさせられた。
蓮巳の菫色の瞳が、赤く染まっていく。身体の奥底が、煮えて煮えて燃え上がるような、憤りが瞳を染めていく。
「……誰だよ。誰。僕の中に入り込んで。莉子は私のもの? ……ふざけないで」
蓮巳は窓の外に目をやると、ほうきを持って中庭の掃除をしている莉子の後ろ姿が見えた。
「……僕の莉子。今日も可愛いね。一週間の最後に、あいつらと過ごした時間を、僕が上書きするんだ。アハ、それが最高に楽しい、嬉しい。僕だけの莉子ちゃん」
蓮巳の瞳は菫色に戻っていた。ベッドから起き上がると、そのまま部屋を後にする。ゆっくりと動いた扉は、やけに重たく、もう開くことがないかのように厳かに閉じられた。
*
澄み切った青空に、わたぐもが流れる。爽やかな風が、莉子の髪を揺らす。紫陽花が中庭に咲き始めた。もうすぐ、梅雨が来る。
「ふう、これくらいかな」
莉子は中庭の落ち葉掃除が一段落したところで、しゃがんで花壇の紫陽花を眺めていた。丁寧に植えられた紫陽花の隣には、ホオズキが小さな白い花を咲かせている。
「綺麗だなぁ、もう少ししたら、赤い実をつけ……」
気配はしなかった。後ろから長い両手が差し出されたかと思うと、莉子の首の前で交差し、そのまま莉子の小さな身体を包み込む。両手には、黒革の手袋。
「へっ……」
蓮巳が後ろから莉子に抱きついた。莉子は背筋が凍ってしまいそうなほどの恐怖に襲われた。身体を動かして離れようとするが、力が、強い。腕が食い込んで、離れない。
「……は、離してください!」
「おはよう、僕の莉子ちゃん。前も、こうされるとすごく嫌がったよね。……どうしてかな」
「……や、いや!」
「君じゃない君が、怖がっているのかな……? でも、受け入れないと、君が君でなくなってしまう。僕はどんな莉子ちゃんでも、愛してるから……」
止まらない身体の震え……莉子の目から涙が溢れて、花壇を濡らす。
「い、や……」
必死に足掻いて出た声は、消え入りそうなくらい、掠れて弱々しいものだった。黒革の手袋が呪縛のように、莉子の心も体も覆い尽くす。
自然と莉子の脳内には、昨日の如月の温もりが蘇っていた。
(詠一様……詠一様の瞳がほしい……温もりがほしい……)
蓮巳の腕がピクリと動いた。
「は? ねぇ、今、僕以外の男のこと考えた?」
蓮巳の様子が明らかに変わった。莉子を覆う腕が震えて、力が強くなる。
「なんで他の男のこと考えた?」
左腕が莉子の首元へと這ったかと思うと、莉子の首筋にグッと歯が当たった。
「いっ……」
「莉子ちゃんはあいつらの味方なの? 僕を裏切るの? ねぇ、答えてよ。どうして黙ってるの?」
首筋に吐息がかかる。荒々しい呼吸。迫り来る背後からの恐怖に、莉子は身体が動かない。
(こ、わい……前が、暗くなっていく……)
薄れゆく意識の中、蓮巳が莉子の耳元で囁く。
「莉子ちゃんのトラウマ、教えてよ」
正面から風が勢いよく吹いた。莉子の涙が風に乗って蓮巳の頬に当たる。その瞬間、記憶が、蘇る。
――この感覚、知ってる。
大きな体、手にはナイフ、背後を取られ身動きができない。固いコンクリートの床が頬にあたり、血にまみれた手が、後ろ首に襲いかかる。
「いやッ!!」
莉子は目の前にあったホースを震える手で取ると、後ろから抱きついている蓮巳に向けて勢いよく水を噴射した。
「な、に、してる、の……」
蓮巳は目を見開いて、濡れたまま動かなくなった。蓮巳の顔や髪にかかった水滴が、莉子の首筋に流れる。
「はぁ……はぁ……」
莉子は息を切らしながら、ホースを握っていた。咄嗟の動きに、身体が熱くなっていくのがわかる。
赤く染まった頬を、風が撫でる。呼吸を整えながら、莉子は蓮巳の弛んだ腕を引き剥がし、正面に向き合った。流れ続ける水は、莉子と蓮巳の身体を濡らし続けていた。
「それはこっちのセリフです! いつもの千尋様じゃないです! こんなこと……やめて、ください……」
莉子は泣きそうな顔で蓮巳を見る。蓮巳は悲しみでも怒りでもない、儚く壊れてしまいそうな顔で莉子を見つめていた。
(これが、千尋様の素顔……?)
水が身体の熱を覚ましていく。莉子はホースを地面に置くと、まだかすかに震える蓮巳の腕を引き寄せて、しがみついた。
「正気に、戻って……」
蓮巳の瞳が揺れた。涙が一粒、零れ落ちる。
「……莉子ちゃんは、嘘の匂いがして……僕と、同じだと思った。僕の、味方で、いてくれるよね……?」
ドクンと、心臓が鳴った。莉子の蓮巳の腕を握る力が緩む。
(嘘の匂い……そうかもしれない。私には、知らない自分が、知らない過去が、きっと存在している……)
莉子はぐっと蓮巳の腕を握り直すと、自分の胸に当てる。心臓の鼓動が速い。ゆっくりと、深呼吸をする。
(だけど、私はここから逃げられないから……向き合っていくしかないんだ。葵のために、自分のために、そして……ご主人様たちのために)
「それは……わかりません」
いつもなら知らぬ間に頷いていたであろう問いを、莉子は蓮巳の目を見て真っ直ぐに答えた。
蓮巳はピクリと眉を動かすと、パンッと、莉子の手を振りほどく。
「っ……」
莉子は蓮巳に拒絶されたかとビクリと肩を震わす。
しかし、その身体は蓮巳にふわりと抱かれた。
「わ……っ」
「じゃあ、じゃあ、せめて……莉子ちゃんのこと、全部知りたい。僕が一番、知ってたい。お願い、君がいなくなったら、僕は……毒にまみれてしまう」
蓮巳の身体が熱を帯びる。蓮巳の涙なのか、滴り落ちる水なのかわからない生あたたかいものが、莉子の背中に流れる。
いつも妖艶で甘い雰囲気を漂わせている不思議なご主人様。だけど、震えながら懇願する姿に、莉子の目には、弱さを持つ普通の青年のようにも見えた。
「……私は、今日は千尋様のメイドです。千尋様が困っていたら、お役に立ちたいです。……だから、今、落ち着くまで、お付き合いさせてください」
蓮巳が小さく嗚咽しながら泣いているのがわかった。莉子は何も言わずに、ゆっくりと蓮巳の背中に手を伸ばす。
(千尋様の全てにお応えすることはでない。でも、一人は苦しい。悲しいから。せめて、私だけでも、お側に……)
莉子は唇を噛みしめる。
蓮巳への恐怖はまだ消えていない。莉子のトラウマを、無理やりにでも呼び起こそうとする、危険な人物。それでも、放っておけない危うさが、この手を離せない理由だった。
わたぐもがいつの間にか大きくなっていた。西の空が暗い。じきに、雨が降る。




