第2話 命令は拒めない
この八芒星学園には、五大財閥の御曹司たちがトップに君臨している。その美貌、地位、権力は、誰もが憧れ、崇め、ひれ伏すほどの才であった。
莉子は、そんな彼らのメイドとして仕えている。授業が終わり屋敷に帰れば、彼らは莉子のご主人様。特殊なのが、ただのメイドではない――日替わりで五人をお仕えする、“日替わりメイド”であった。
*
放課後の中庭は、モミザがふわふわとした黄色い花を咲かせ、ピンクと赤のチューリップが一面に揺れている。よく手入れされた花園の中。
花草がかすかに風になびく音にまぎれ、莉子の心臓の音だけがやけに大きく波打っていた。
「おい、莉子」
校舎の影から現れたのは、火曜日のご主人様、神城帝真。
この学園で、彼に逆らえる者はいない。神城財閥は八芒星学園の創立母体であり、神城はその一人息子。いきすぎた傲慢さは時に崇高な信仰へと変わる。高慢で横柄な態度ですら気高くみえるのは、彼の日本人離れした顔立ちのせいか、堂々たる格のせいか。
「こっち来い」
拒否は許されない。莉子へ真っ直ぐに向けられた視線が、そう訴える。莉子は小さく頷くと、中庭の芝を踏みしめた。校舎の陰に立つ神城の足元には、革靴が差し出されている。
「これ、汚れてる」
「……っ」
「拭けよ。手で」
本来、学園内での奉仕は禁じられている。しかし、神城は些細なことでも莉子を呼び出し、こうして命令を強いる。
まるで、莉子には人権などないかのように。
遠くで生徒たちが談笑しながら通りすぎる。二人の様子に気づくと、足を止めた。
「あら、夢乃さん?」
「また神城様と一緒だわ、よくも庶民の分際で」
「ほんとだわ。それに、夢乃さんのあの態度……」
「まるで、躾けられた召使いみたいね」
クスクスと、品のいい笑い声が風に乗って耳を刺す。
莉子は芝生に両膝をつき、頭を下げた。
神城は笑っていた。女子生徒たちの言葉が聞こえているのを知りながら、命令を続けるのはいつものことだ。
「恥ずかしい?」
「……はい」
「ふーん。俺の命令で?」
「……はい」
「じゃあ、やめる? 抵抗すれば」
試すように、挑発するように、莉子を惑わす。
でも、莉子は逃げなかった。震える唇を必死に動かす。
「申し訳……ありません……その、ハンカチ、でも、よろしいですか」
「チッ……うるせえな」
神城は莉子の膝のすぐそばに革靴を乱暴に置くと、芝をなぶるように踏みしめる。莉子は恐怖に顔を歪める。
「誰が提案していいって言った?」
「うっ……お許しください……」
神城はしばらく莉子を見下ろした後、呆れたように首を振った。
「はあ、もういいよ。じゃ、ハンカチで」
「あ、ありがとう、ございます……」
恐怖に悶えながらも、ハンカチを取り出し、神城の革靴に添えて撫でていく。
拭き終わると、神城は満足そうに踵を返す。
「じゃ、解散。またね、躾けられた召使いさん」
莉子は中庭を離れる神城の背中を見ながら、周囲の視線が突き刺さるのを感じた。
(これでまた、学園で……)
女子生徒たちが振り返り、あからさまに距離を取るのがわかった。
(……孤立していく)
莉子はゆっくりと立ち上がり、制服についた芝を払い落とす。青臭い匂いが鼻をかすめると、堪えていた感情が溢れ出そうになった。しかし、グッとスカートを握りしめ、耐える。
ふと、誰かに見られている気配を感じた。視線のような風。花草が揺れるのとは違う、湿っぽく背後を撫でる気配。
(まだ誰か、見てる……?)
振り返っても、誰もいない。けれど、空間が一人分、減っていた気がした。
*
この屋敷には音がない。人の気配も、時間の流れも、どこかおかしい。
その夜、莉子は神城の部屋へ紅茶を運ぶよう命令されていた。今日はダージリン、ストレート。神城は香りが強く甘みの少ない味が好みだ。ご主人様の好みを把握しておくのもメイドの務めである。
「帝真様、失礼します。紅茶をお持ちしました」
扉をノックするが、返事がない。ふと、扉が少し空いていることに気づいた。部屋に明かりは付いていない。隙間からそっと覗き込むと、バルコニーの椅子に神城が腰掛けていた。
月明かりに照らされる、日本人離れした美しく整った横顔。神々しい黄色の瞳が、夜空を支配する月のように輝いていた。けれど、その瞳がほんの少しだけ、潤んでいるように見えた気がした。
(帝真様? 泣いているの?)
ガシャン、と紅茶を乗せたワゴンが動いた。神城に見とれている間、つい前のめりになり体がワゴンに当たってしまった。
神城がゆっくりとこちらを向く。莉子は怒られると思い、びくりと身体をこわばらせた。
「ご、ごめんなさい! 覗き見みたいなことしてしまって……」
「……別に。はやく入れば。紅茶が冷める」
意外な神城の態度に、莉子はきょとんと神城を見つめた。
「なに? 俺の言うこと聞けないの?」
「はっ……今すぐお持ちします!」
莉子は焦りながらバルコニーへ向かった。
神城のゆっくりと紅茶を飲む音だけが、夜に響く。夜空を見上げながら、何かを考えているようだった。
莉子はその隣で、落ち着かない様子で立っていた。
「そこに座れ」
「えっ……」
「いいから座れよ」
神城は立ち上がると、莉子の手を強引に引っ張り、向かいの椅子に座らせる。
「莉子ってさ、ここから飛び降りろって命令したら飛び降りるの?」
冗談なのか、本気なのかわからない目で莉子を見つめる。こんな顔をする神城は初めてみた。いつも傲慢で、横柄で、乱暴な態度で莉子を弄んでいるのに、この夜だけは別人のようだった。
「えっと……それは、できません。どんな痛みを受けても、罵声を浴びせられても、命を粗相にするような命令には答えられません」
――ドクン。莉子は心拍数一回分、心臓が締め付けられるような苦しさに襲われた。
(なに、この痛み……)
しかし、すぐに心臓は静まる。
もしかしたら、両親の死に影響されているのかもしれない、と莉子は胸に手を当てる。大切な人を失った悲しみは、生涯消えることはない。せめて、自分を授けてくれた両親への想いとして、この命は大切にしたい。莉子はそう強く願った。
莉子の真剣な表情に、神城は間の抜けた顔をした。そして、口角を上げて悪く笑う。
「ハッ、さすが俺の命令に口答えした奴。でも、命令は命令だろ。逆らうと罰を受けることになる。謝罪の言葉はなんだ? 土下座でもしてくれんのか」
「……帝真様が土下座しろとおっしゃるのであれば、私はします」
莉子は背筋を伸ばして真っ直ぐ神城を見ていた。莉子の小さな手は震えていた。生意気なことを言っているのは自覚している。でも、ここで怯んだらいけない、と自分に言い聞かせた。
(私には、この屋敷で生き延びる理由がある)
「……あっそ。お前は壊れないのか」
「……?」
黄色い瞳が空に流れる。小さな沈黙。星は見えない。大きな月だけが、暗闇の真ん中に佇んでいた。神城のシルエットに重なる。まるで、神城が、この夜の支配者のように。
「俺のこと、子供っぽい馬鹿な人間だと思うだろ」
「そんなことは……」
「情けのつもり? さっきからいい子ぶるのやめろよ」
神城はため息をつくと、苛立った様子でテーブルの上のティーカップを、何の躊躇いもなく手の甲で払い落とした。
「きゃっ……」
ガシャンと音を立てて陶器が割れる。大きな音ではなかったはずなのに、夜が静かすぎたせいか、身震いするほどの衝撃に感じた。
(どうしてこんな、乱暴なこと……)
莉子は身体をこわばらせ、神城の方を見た。
「ハッ、莉子のさ、その目が嫌いなんだよ。いつも俺の前では冷たい顔してさ、馬鹿にしてんだろ」
(……そんなつもりはない。今、冷たい、寂しい顔をしているのは、帝真様……)
ティーカップの破片が、莉子の足元に転がる。
「俺の命令に従うのがそんなに嫌?」
「ち、違います……」
神城の黄色の瞳が、莉子を捉えて離さない。その瞳の奥には、怒りよりももっと、深くて、黒いもの。禍々しい感情が渦巻いていた。
「じゃあ、俺だけのメイドでいろよ」
それはできない。莉子は日替わりメイドなのだから。神城もわかっていて言っているのだろう。莉子が俯きながら小さく首を横に振ると、神城は不機嫌そうに舌打ちした。
「……夜が嫌いなんだ。孤独に支配されて、押し潰されそうになる」
月が雲に隠れて、神城を照らしていた明かりが薄くなっていく。このまま闇に消えてしまいそうな気がして、莉子は思わず身を乗り出し、神城の顔に手を伸ばしていた。
「いたっ……」
割れたティーカップのかけらが、椅子にひとつ、飛び散っていた。気づかずに手で踏んでしまい、左手の人差し指が切れて血が滲んでいた。
「ひゃっ」
柔らかく、温かい感触がした。神城が莉子の手首を掴んで、指を舐めた。
「て、帝真様……! 血がついてっ、汚いです」
「莉子の血を舐めようがどうしようが、俺の勝手だ」
唇に移った莉子の血液が、神城の赤い唇に紛れて艶やかに染め上げる。なぶるように、舌を唇に沿わす。薄明かりの中、神城の黄色の瞳が煌る。妖艶で、神秘的な光景だった。
「……壊れずに、ずっとそばにいろ」
月明かりが再び神城を照らす。そこに浮かび上がったのは、孤独を捨て、真っ直ぐに獲物を捕える目をした、誰にも憚らないご主人様だった。
*
――観察対象No.417
状況:火曜担当 神城帝真との接触終了
接触反応:強制性命令に従順 命令者に同情的行為あり
感情変動:羞恥 52% → 服従 82% → 自己嫌悪 67% → 動揺 65% → 遵守 92%
命令抵抗反応:微弱
命令適応率:122%
記憶封鎖率:98.5% (一時変動みられたが問題なし)ver.3.2
「順調。理想的な被験体として機能している」
「……しかし、飛び降りろという命令に従わないのは、いけない子だ。躾のしがいがある」