第18話 如月詠一の違和感②
「いててて……」
如月は莉子のほっぺを軽くつねってみる。ちゃんと刺激を感じている様子だった。莉子の意識は確かにここにある、と如月は小さく安堵する。
ふと、下の方に気配を感じ視線を向けると、白猫が莉子の足元に擦り寄っている。莉子に付いてきたのか、莉子のそばでゴロンと寝転がる。
(なんだ、この集中力の切れる生き物は……)
如月はコホンと咳払いをすると、真剣な目で莉子を捉える。
「メイド、本当に昨日屋敷に帰ってからのことを覚えていないのか?」
「は、はい……私、何かご迷惑をおかけすることをしましたか……?」
首を傾げて眉を下げる莉子は、嘘をついているようには見えなかった。だとしたら、本当にその記憶だけ抜け落ちてしまったか、記憶を消したいほどのトラウマだったのか……。如月はこの状況に考えあぐねていた。
(莉子に、No.417について何か知っているか、聞いてみるか……?)
しかし、泉の「莉子のトラウトの引き金になりかねない」という言葉を思い出し、その質問を飲み込んだ。
莉子にはなるべく傷ついてほしくない。消したいほどの記憶だったのなら、思い出さない方がいい。そう考えた如月は、不安げに自分を見つめる莉子の頭をぽんとすると、「なんでもない。俺の勘違いだった」と苦笑いした。
(あとで泉に相談してみよう。……俺はひとりじゃ、結局なにもできないんだな)
そんな如月の戸惑いを察したのか、莉子は焦った様子で如月の手を取った。
「詠一様、私、何かしてしまったなら謝ります。だから、そんな顔をしないでください……」
こんな時でも他人を心配する莉子に、如月は歯を食いしばる。如月は莉子の身体に手を伸ばしかけたが、その手は莉子へ届く前に止まってしまった。
(手を差し伸ばす、勇気が出ないーー)
如月はいつも自分に自信がない。二面性を演じているのも、弱い自分を守るためだった。莉子は、そんな弱くて脆い本当の自分を受け入れてくれるだろうか、と如月は両手を震わす。
行き場を失ったその両手は、時間の流れから置いていかれてしまったように、静かに空を彷徨った。
*
朝から如月の様子が変だった。莉子の前で、あきらかに何かを隠すように誤魔化した。あれは、自分の言動がおかしかったから、そうなったのだと莉子も気づいていた。
(また、私じゃない私が、暴走をしている……)
莉子は道端の小石を小さく蹴る。花壇のレンガに跳ね返り、自分の靴先に当たる。同じことを繰り返しながら、通学路を歩いていた。
(自分のしたことが、何か壁のようなものに影響されて、軌道を変えてまた自分に戻ってくる。今の私も、そんな……)
莉子は背筋に寒気を感じた。咄嗟に背後を振り返る。誰もいない、視線も気配も感じないのに、自分以外の誰かが、他にいるような気がした。
莉子はそれから振り返ることなく、早足で学園へ駆けて行った。
*
隣の席というものは、本当に厄介だ。特に恋愛感情でなくとも気になる相手が隣に座っていると、視野が草食動物並みに広くなる気がする。授業中、黒板を見ているはずなのに、隣にいる莉子の動きに目がいってしまう。そして今朝の件もあり、かなり気まずいーーと、如月は手元のペンをクルクルと回していた。
(ああ、憂鬱だ……)
「……らぎくん、きさらぎくん、如月くん!」
古典担当の澄川先生が何度も如月の名前を呼んでいたのに気づかなかった。クラス全員が、如月の方を向く。
(しまった。俺としたことが、授業中に先生の呼びかけに気づかないとは、いかん)
「すみません、澄川先生。えっと、古文23ページ10行目ですね」
「どうしたの、上の空だったみたいだけど。如月くんにしては珍しいわね」
「いやぁ、少し寝不足で。あはは」
「そう、勉強もほどほどにね。それと、今は漢文57ページ2行目を音読してほしいのだけれど」
静まり返る空気に、如月は耳を赤くした。
(俺としたことが……!)
「あ、あはは。冗談ですよ、先生」
「そう、じゃあ冗談もほどほどに。来週から、新しく臨時講師の先生が来るから、それまでに寝不足は解消しておいてちょうだいね」
澄川先生は黒板に向きを変えると、淡々と漢詩を書き出していく。
(臨時講師……? 聞いてないな。まあ、今は関係ないか)
如月は失態を莉子に見られたことを気にして、横目で莉子を見やると、顔色を悪くしてガタガタと身体を震わせていた。
(な、なんだ……?)
そんなに自分の失態がおかしかったのか? と莉子の肩を軽く叩くと、ぴたりと莉子の震えが止まった。
如月は莉子の顔を覗き込むと、その薄ピンクの瞳がかすかに瞳孔を開いて固まっていた。




