第15話 泉理仁の決断①
泉理仁の朝は早い。5:30起床、歯磨きと洗顔、5:50中庭をジョギング後、シャワーを浴びて制服に着替える。6:30朝食、今日は水曜日なので、莉子が運びに来る。
だが……遅い。以前も同じようなことがあった。決して業務を放置するなどしない莉子が、いくら待っても泉の部屋へやってこなかった。代わりに、ニヤついた顔の天海が莉子を監視しているタブレットを持ってきた。天海のお遊びだと放置していたが、画面の中で莉子が倒れそうになったところをたまたま見つけ、泉がすぐに駆けつけた。
(もしや……また倒れたのか?)
無意識に心配している自分に気づき、頭を抱える。
しかし、莉子のことだ。また他人のために頑張りすぎて、体調を崩している可能性はなくはない。莉子はお人好しで他人の心配ばかりするので、泉は不安になっていた。
泉は莉子の様子を見に行こうと、そわそわしながらテーブルから立ち上がると、バタンと勢いよく部屋の扉が開かれた。
「ハァ、ハァ、お、遅くなり、申し訳ありません! 理仁様、朝食をお持ちしました」
息を荒げた莉子が、勢いよく部屋に入ってきた。ワゴンを引いて、泉の前に立つ。不意の登場に、驚いて身体が固まる。
「わっ、ご、ごめんなさい! ノックするのを忘れていました! 失礼しまし……理仁様……?」
泉は莉子の必死な顔に、思わず見惚れていた。頬がいつもより赤く染まり、小さな唇が開いて吐息が大きく漏れている。睫毛がよく開き、唇と同じ桃色の瞳がよく見える。これが全部、自分の朝食を急いで運ぶためにできた現象だと思うと、泉はわずかに潤むその瞳から思わず目を逸らした。
「理仁様……? も、もしや朝食の時間に遅れて、怒っていらっしゃいますか……? ご、ごめんなさい……」
「いや、問題ない。運んでくれ」
泉は軽く咳払いをすると、椅子に座り直した。莉子の運ぶ朝食を静かに食べ始める。心臓がやけにうるさいのが煩わしかった。
「珍しいな。お前が遅刻するとは」
「あっ、その……実は、猫を飼い始めまして。今は帝真様のお部屋で飼っているのですが、朝からお水を変えたりご飯の準備をしていたら、遅くなってしまって……」
(ねこ、だと……?)
泉は驚いた。神城が猫を飼うような人間だとは思わなかった。
(自分の世話もろくにできないような奴が、動物を世話するなど……大丈夫なのか)
「でも、帝真様ったら、カイくんにベッタリなんですよ。ふふっ、グレーの猫さんだと思ってたら、体を洗うと白色になって! あ、カイくんっていうのは猫さんのお名前で、帝真様と名付けたんです。それと、帝真様に頼んで、病気などがないか検査してもらいました! 詳しい結果は後日出るそうですが、とりあえずは健康体みたいでよかったです」
泉が楽しそうに笑う莉子を見るのは二度目だ。先週、温かいハーブティーを用意してくれた時も、こんな顔をしていた。泉は頬をつきながら莉子の様子を見ていた。思わず口角が上がっている自分に気づくと、再度咳払いをする。
ふと、ひとつの疑問がよぎった。
「朝から、神城の部屋にいたのか……?」
「そ、そうですけれど……」
「……」
チクリと胸にささくれのようなものができる。神城の部屋に、これから毎朝行くのかと思うと、なんだかモヤモヤしてきた。
(……いや、俺は何を考えているんだ。たかが猫の世話だろう)
「神城の部屋は物が多い。誤って小物を誤飲でもしたら危ない。……お前の部屋で世話をしたらどうだ。普段は、屋敷に放って自由にさせておけばいいだろう」
莉子の顔がパアッと明るくなる。
「なるほど! 理仁様、さすがですね。私ったら、命を守ると決めたのに、油断が多くてだめですね。気をつけます!」
苦し紛れに出た言葉に、素直に反応する莉子に、こいつはいつか詐欺にでも遭うのではないかと心配になった泉だった。
泉は朝食を食べ終わると、7:10紅茶を飲みながら、朝の読書を開始した。
*
授業を終えると、朝の動揺を消化させようと、泉は中庭に出た。いつもは図書室にこもっているので、こうして花畑の中を歩くのは久しい。周囲の生徒たちが、泉を見ている。昔から、泉グループの長男というだけで注目されるのが嫌いだった。自分は何もすごいことは成していない。地位や権力でしか物事を図れない他人とは関わりたくない。そう思っているうちに、泉はいつしか自分しか信用できなくなっていた。
(図書室に戻るか……)
ルーティンにはみ出たことをすべきでないな、と校舎へ向かう途中、すれ違った女子生徒たちの会話が耳に入った。
「ねぇ、あの子、大丈夫かしら」
「庶民なんだから、狭いところには慣れてるでしょう。元々汚いのだから、問題ないですわ」
「ええ、むしろ自分の立場をわきまえるべき良い機会よ」
「そ、そうよね。それに、体育館の倉庫なんて、誰かが見つけてくれるわよね」
泉は足を止めた。振り返り、女子生徒のひとりの肩を掴む。
「……おい。お前」
「ちょっと何よ……って理仁様?! やだ、どうなされたのですか?」
「今の話は本当か?」
「えっと、なんのことでしょう……」
「本当か、と聞いている」
女子生徒の目が泳ぐ。泉が険しい目つきで睨みつけると、肩を震わせて泣き出す。
「子供っぽいことはやめろ。不愉快だ」
泉はその場へ崩れ落ちる女子生徒に構わず、急足で体育倉庫へ向かった。徐々に足が速くなる。気づけば、息を切らしながら全力で走っていた。
*
(震えが止まらない。怖い。誰か、助けて――)
莉子は膝を抱えて座り込んでいた。同級生に呼び出され、ここに閉じ込められた。莉子は暗くて狭い場所が苦手だ。
(きっと小さい頃のトラウマ……過去に閉じ込められたことがある気がする……)
顔から血の気が引いていく。壁が、天井が、段々と自分に近づいている気がする。酸素が少なくなっていく感覚。
莉子の呼吸が速くなる。喉が痙攣して、声が出ない。
(怖い、怖いよ、苦しい。誰か、誰か――)
ガシャンッと、倉庫の扉が開いた。かすかな光が、扉から差し込む。安心したのも束の間、目の前がぼやけて意識が遠のく。「莉子!」と名前を呼ばれた気がした。
(誰の、声……?)
*
震えた身体を抑え込むように、小さくうずくまって横たわっている莉子がいた。泉は急いで莉子を抱えると、躊躇うことなくお姫様抱っこをして保健室へ向かった。
泉は息を乱しながら、全身に汗をかいていた。制服のシャツが張り付いて不快に感じる。泉がこんなにも人前で取り乱した姿をさらしたのは初めてだ。しかし、羞恥よりも怒りの方が勝る。莉子を守れなかった自分への怒りだ。
以前から莉子は周囲から浮いた存在であることは知っていたが、泉は自分には関係ないと見て見ぬふりをしていた。それに、莉子はそんな状態でも泣くことはなかった。
(……過信していた)
莉子は、誰よりも脆く、壊れやすいのを、ひたむきさでいつも隠している。莉子の危うさには、泉も気づいていたはずだ。
(知っていながら無視をしていた俺も、あの女子生徒たちと同罪だ。この小さな身体すら守れない自分が、将来国家を背負う財閥の頂点に立てるだろうか)
莉子を抱きしめる力が強くなる。名ばかりの地位に酔っていたのは自分自身だと、泉は歯を食いしばった。




