第11話 甘い罠は命令よりも毒で
大きな白い塔。この建物で、弟の葵は治療を受けている。契約を交わしてから葵の容態は安定しており、ベッドで寝たきりだったのが、食事、排泄、入浴と軽いリハビリができる程度には、日常生活動作が安定してきていた。
「お姉ちゃん! 来てくれたんだ」
葵はベットに浅く座り、柵を支えに足をぶらぶらと揺らしていた。
「葵……! 会いに来たよ。横になってなくて平気なの?」
「うん、今は平気だよ。それにね、ぼく、あのクマさんがいるところまで、リハビリの先生となら歩けるようになったんだ。クマさんと、そこに座って、お話するの。いつか、外の世界に出て、大冒険するんだって」
無邪気に笑う葵に、莉子は涙が出そうになる。……外の世界に出て、大冒険……させてあげたい。させるんだ。そう心に結いどめる。莉子は涙を堪えて、思わず葵に抱きついた。
「ごめんね……中々会いに来られなくて。寂しいよね、一人にさせてごめんね」
「……お姉ちゃん、ぼく、大丈夫だよ。看護師さんも、お医者さんも、リハビリの先生も優しいし、クマさんとも仲良しなんだ。それに、リハビリの先生が、今よりもっと頑張ったら、この病院にいる別の子どもたちとも遊べるようにしてくれるって、言ってたよ。はやく、お友達が欲しいなあ」
「そう、なんだ。葵はすごいね。葵なら、お友達、たくさんできるよ」
小さな身体で、必死に命にしがみついている葵を、私が守らないといけないんだ、と莉子は胸に強く刻む。
「お姉ちゃんも、前よりちょっとだけ、元気になった」
「……そう? 葵のおかげだよ。ありがとう」
葵はいつでも鋭い。
(不安にさせないように、しっかりしないと)
莉子は葵をもう一度、深く抱きしめると、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
*
「おはよう、莉子ちゃん」
蓮巳の部屋へ朝食を運ぶと、ベッドにパジャマ姿の蓮巳が横たわっていた。綺麗にカールした寝癖までもが、彼の美の一部となって、存在を引き立てている。
「お、おはようございます。あの、名前……」
「うん、莉子ちゃん。こっちの方が、僕は好きだな……」
だらんとした寝巻きが、蓮巳の白い右肩を晒す。莉子は思わず目を逸らすと、にこりと蓮巳が笑う。
「ねえ、こっちに来て、食べさせて。僕、眠たくて、動けそうにないんだ」
「えっ、でも」
「お願い、莉子ちゃん。はやく……」
莉子は蓮巳の甘い声にひかれるように、朝食を乗せたワゴンを引き、ベッドに向かって歩いていた。
「そう、ここに腰かけて。スクランブルエッグが食べたいな」
莉子はベッドの端に座ると、スプーンでスクランブルエッグをすくい、蓮巳の口元まで運ぶ。
「わっ」
急にスプーンを持つ手が掴まれ、皿に戻される。スプーンがカシャンと音を立てて、手から離れた。その感覚で、莉子の遠のきかけていた意識が戻る。
無意識に、命令でもないのに、従っていた。
「……ケチャップをかけ忘れてる。僕の好きな食べ方、知ってるでしょ……? いけない子だね……」
「えっ……ご、ごめんなさい……」
莉子は蓮巳が朝食を食べている姿は見たことがない。でも、いつも蓮巳はケチャップをかけていたような、気がする。
「……莉子ちゃんは、誰のためにここにいるの?」
莉子の心臓が唸った。
(……葵のため。この人も、朔様のように葵のことを知っているのかな……)
目が泳ぐ。蓮巳を直視できない。莉子は居た堪れず、背を向けて俯く。
そんな莉子の様子を蓮巳はじっと見つめると、楽しそうに笑った。
「そうなんだ……うん、莉子ちゃんは頑張り屋だね。僕は莉子ちゃんのこと、もっと知りたいな」
蓮巳は、莉子の肩をそっと引き寄せた。莉子は蓮巳の甘い香りに、ドキッと胸が鳴る。
そのまま、蓮巳が後ろから莉子に優しく抱きつこうとした。
ーーその瞬間、莉子は背筋に強い寒気が走った。咄嗟に振り向くと、蓮巳の硬い胸を両手で強く押しやった。
「あっ……ご、ごめんなさい! 身体が勝手に……」
「……」
以前、蓮巳に噴水の石垣で身体を寄せられた時や、ベッドに寄り添って座っていた時は何も感じなかった。なのに、今、莉子は身震いし、凍えるような悪寒に襲われている。
「いま、すごく僕のことを睨んでた。……無意識に。莉子ちゃんの中には、何がいるの……?」
「……えっ……」
「莉子ちゃんは、たまに自分でない何かに怯えてる。僕、そんな莉子ちゃんをみてると、……愛おしく感じるんだ。その恐怖で怯えた顔でさえ、可愛くて堪らない」
妖艶に微笑む蓮巳は、莉子の心を縛りつけた。美しい顔からは想像できない、歪んだ愛を、殴りつけるようにぶつけてくる。
顔がこわばる。寒い。身体が震えて、石のように動かない。
(この人は、異常だ。でも……なぜだか、逃げられない……)
「莉子ちゃんの全ては、この僕のものだからね」
「…………はい、千尋様」
莉子は自然と返事をしていた。怖い。怖いのに、全てを委ねてしまえば、楽になる、そんな気がしてしまった。
*
「おい、蓮巳。また記憶の上書きをしたな」
天海が手帳を持って現れた。蓮巳の部屋のドアは半分空いており、その隙間に背をもたれるように天海が立っている。
「……なんのことかな」
「しらばっくれないで。聞いてたから、全部」
「……」
「誘導尋問、心理操作、記憶改竄……潜在意識を操って、楽しんでる。胸糞悪い」
天海は手帳をパラパラとめくりながら、低く吐き捨てる。
「アハ、それを言うなら、君だって、莉子ちゃんをずっと観察して、面白がってるじゃない」
「あんたみたいなのと一緒にしないでもらえる? 僕はあの子のためにしてるんだ。あの子の今後を見届けないといけない。そう言われている」
「……ふーん」
蓮巳はソファに深く腰かけ長い足を組むと、考え事をするように開いた窓の外を見る。
「とにかく、あまりあの子に近づかないでもらえるかな。僕は素の彼女を見ていたいんだ。蓮巳に上書きされたものなんて、意味がない」
「……そう。それより……ねぇ、僕と莉子ちゃんって、どこか似てる気がするんだ。……同じ匂いがする」
「全然似てないね。あの子はもっと可愛げがある」
「アハ、それもそうだね……」
蓮巳のシルクのような髪が風になびいて、サラリと揺れる。蓮巳の目には、莉子の戸惑う顔が浮かんでいた。揺れる視線、こわばる口角、まばたきの癖、間の置き方、沈黙の質……全てが、本当の莉子を示している。数値などでは測れない、心と意識の中の君。
「……本当に、莉子ちゃんは可愛いね」
*
夜、莉子は部屋へ戻ると、そのままベッドに倒れ込んだ。
(千尋様は、本当にわからない)
蓮巳という存在がいまだに掴めない。そもそも、本当に存在してるのだろうか……? と、莉子は身震いした。
(そんな、幽霊じゃないんだし)
ふと、ベッド横の棚の引き出しが空いてることに気づいた。
(開けっぱなしにしてたっけ……?)
引き出しを戻そうとするが、何かに突っかかっている。中を覗き込むと、小さな紙が隙間に挟まっていた。取り出してみると、「12」と書かれ雑に破かれたメモ用紙のようなもの。
(12……? なんの数字だろう)
疑問に思いつつも、メモ用紙を元に戻そうとすると、莉子の顔が青ざめた。
破かれた箇所の裏に、薄い血痕のようなものが滲んでいる。思わず手を離す。
「な、に……?」
莉子は慌てて引き出しにメモ用紙を戻した。知らない、何も見ていない……必死にそう自分に言い聞かせた。
*
――観察対象No.417
命令適応率:156%(過剰反応)
被験体は蓮巳千尋の「親和的・接近型」支配において、記憶再構築、認知バイアスに反応して安心と恐怖を混同している。
「蓮巳の人格境界にのまれるようであれば、壊れることになる。要注意」




