第1話 メイドという名の檻
「拾って。三秒以内に」
ソファのクッションが床に落ちた。天海朔がわざと落としたのは明らかだった。
「それ、朔様が勝手に落とした……」
言葉の終止が打たれる間もなく、莉子は身体に電気が走るようなひりつきを覚えた。痛みに身体を震わせ、しゃがみ込む。
「うっ……」
「バカなの? 三秒以内、命令は絶対だよね」
足を組んだまま、天海は呆れたように莉子を見下ろしていた。天海の切れ長の二重が、睫毛の重みで伏し目がちになる。長い睫毛の隙間から映える栗色の瞳が、冷たさと少しの好奇に満ちている。
(これが、絶対服従ということ……)
ご主人様の一言で、身体も思考も逆らえない。それは、この屋敷で生き延びるため莉子に与えられた、唯一の道であり、残酷な鎖であった。
*
屋敷に雇われた時、ある条件と引き換えに契約を交わした。
与えられた命令は三つ。
「ご主人様の命令には絶対服従」
「屋敷のことは誰にも話すな」
「誰のものにもなるな」
契約を交わしたとき、莉子はまだ、この命令の重みを知らなかった。
*
莉子の目の前にいるご主人様は、天海朔。天海財閥の御曹司であり、後継者。天海財閥は医療インフラと研究機関を束ねており、医療特権の象徴だ。
天海はいつも気怠げで、何を考えているのかわからない。ペルシャ猫のような気品を漂わせながら、ソファに足を組んで寝そべり、その手には手帳とスマホを常備している。無造作に流された前髪から覗く瞳が、退屈そうに莉子に向けられる。
「ここに来る前、メイド服のスカートの裾につまづいて、派手に転んだでしょ。鈍臭いよね、あんたって」
「……ど、どうしてそれを……?」
「ふっ、その顔。そういう顔して驚くんだ。いいね」
スマホを置き、片手で顎を支えながら、天海は薄く笑った。ねっとりとした視線に、莉子は思わず身構える。
メイド服のスカートの裾は確かに汚れている。莉子の額には赤い打ち身の跡。天海はそれをみて、推測したのだろうか。天海の目は、怖いほどいつも鋭い。
「そんなに警戒しなくていいでしょ。あんたさ、こうやって見られるの好き?」
「えっ……」
莉子の反応を味わうように「ほら、仕事だよ」と呟くと、天海の陶器のような白い手が柔らかく動いた。色素の薄い髪が揺れる。優美な刺繍模様が施されたクッションが、床に落ちた。
「拾って。三秒以内に」
「え……それ、朔様が勝手に落とした……」
言葉の終止が打たれる間もなく、莉子は全身に電気が走るようなひりつきを覚えた。痛みに身体を震わせ、思わずしゃがみ込む。
「うっ……」
「バカなの? 三秒以内、命令は絶対だよね」
(なに、この感覚……)
身体が、命令に反いたというだけで拒絶を起こしている。莉子は恐怖で怯えた顔を、天海の方へ向けた。視線の先には、冷たさと好奇が混じる目で莉子を見下す天海。
(絶対服従という命令を守らなければ、罰のようなものが与えられるの……?)
違和感のようなものが心を揺さぶった。
しかし、ここで考えている猶予はない。
「ほら、早く拾って。三秒以内」
「……はい、かしこまりました」
莉子はぐっと心を引き締めると、姿勢を整え、クッションを拾い上げる。些細な音すら立てないように、美しく、無駄がなく、丁寧に。
それが正しい仕草であるかのように、身体が動く。自然とそれができた自分に莉子は驚いた。まるで、自分が自分でないようだった。
「合格。いい反応だったね。さっきの、痛かった?」
「……っ」
「ふっ、素直だね。心拍数上昇」
「えっ……」
天海はソファから降りると、ゆっくりと莉子に近づく。思わず後退ろうとした莉子は肩を掴まれ、ビクリと身体を震わせた。天海は怯えの消えない莉子の顔を見ると、まるで服従を測るように目を細める。
「……あんたさ、誰の命令で動いてんの?」
薄い唇が艶を帯びている。眉ひとつ動かぬ表情に、問いに込められた意図は読みきれない。
「ご、ご主人様の命令です。朔様の……」
「へぇ、ご主人様の命令……ね。嘘はつかない方がいいよ? この屋敷、“そういう嘘“には敏感だから」
天海は手にしていた手帳に何かを書き込むと、退屈そうにソファに戻る。
(どういう意味?)
「ま、いいや。それより、座っていいよ。ここ」
「で、でも……」
「はぁ、めんどくさ。膝枕って言えばわかる? 僕、疲れてるんだ。あんたみたいな面白みのない人間でも、観察するのって地味に体力使うから」
(観察って……)
莉子は、自分の膝の上で眠っている天海の長い睫毛を眺めながら、困ったようにため息を吐いた。
(こんなはずじゃなかった)
*
夢乃莉子、高校一年生。暖かな陽気の中、桜の蕾が膨らみ始める頃だった。家に帰り夕食の準備をしていると、一本の電話がかかってきた。
両親が事故で亡くなった、と聞かされた。
受話器の音が遠ざかる。外ではしゃぐ子供たちの声が、やけに大きく窓から染み透ってきた。
残されたのは、古びたアパートと、通帳に残る心細い残高だけ。身寄りはなく、頼れる存在もいなかった。
涙は出なかった。あまりにも呆気ない状況に置かれた人間は、こんなものなのかと思った。それとも、考えてしまえば崩れてしまいそうな自分を、誤魔化していたのかもしれない。
このままで生きていけるほど、現実は甘くない。
バイト求人サイトで見つけた【日給高額・住み込み可・秘密厳守】家事ができる女性歓迎という文字。
藁にもすがる思いで面接に行ったあの日から、莉子の運命は狂い出していた。
「適性、ありますね」
ひどく冷淡な声で言われた。それが、このメイド生活の始まりだった。
*
「じゃあ、またね。明日は帝真に可愛がってもらいなよ。“火曜日のご主人様”なんだから」
声に現実へ引き戻され、莉子ははっと目を覚ました。
ぱちん、と膝の上の天海と目が合う。
「へぇ。今日のあんた、まばたき、78回」
「……?」
「昨日は92回だった。ちょっとマシになったね」
「っ……! 数えて……」
「ふっ、ごめん。僕、そういうの記録してるから」
天海は玩具を楽しむような表情で莉子を見やると、莉子の膝から起き上がり、あくびをしながら片手で追い払うように合図した。本当に、猫のように気分屋だ。
「観察、案外面白かったよ。“誰のものにもなるな”って命令、ちゃんと守ってね?」
ぞくりと、莉子の背筋が凍った。誰のものにもなるな、という言葉が、なぜだかとてもおぞましく感じた。まるで知らないはずの何かが、身体の奥からゆっくりと這い上がってくる、そんな感覚に襲われる。
天海はそんな莉子の様子を、無表情で横目に見ていた。
(朔様は、私の何かを知っているの……?)
莉子は慌ててソファから立ち上がると、「失礼します」と急足で部屋を後にした。嫌な汗が体に纏いつく。
しかし、ここで逃げ出すわけにはいかない。
明日は火曜日。
次のご主人様が、莉子を待っている。
*
――観察対象 No.417
状況:月曜担当 天海朔との接触終了
接触反応:想定通り 言語誘導・疼痛管理にて圧制成功
感情変動:反発 16% → 服従 82%
命令抵抗反応:微弱
記憶封鎖率:98.2%(安定)ver.3.2
「まだ、“自分の意志”だと思っているのか」
「観察は、ここからが本番だ」
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
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