第五話 白い花びら
それは、六度目の夜のことだった。
その日の朝、リビングのテレビ画面に映し出された天気予報を見て、どんよりと気分が落ち込んだ。
雨マークの予報のとおり、午後からぱらぱらと降り始め、放課後には本降りとなった。
ああ、今夜もきっと来る……。
自宅の二階の自室で、勉強机に向かっていた私は、窓の外に目をやった。激しく雨粒がガラスをたたいている。
時刻は午後九時を少し過ぎていた。外灯がついているはずだが、強い雨のせいで明かりもかすんでしまい、窓の外は真っ暗だった。
私は今、図書館で借りてきた郷土の歴史にまつわる本を読んでいる。
ぶつっ。
ああやっぱり来た。またあの音だ……。
何かをちぎるような音だった。
ぶつり、ぶつりと、途切れ途切れの音。一体何をちぎっている音なのか……。
眼球だけ動かして、背後のようすを窺う。何かがいる気配はするのに、見えない。
窓ガラスに一瞬何かが映った気がして、そちらに視線を向ける。椅子に腰掛けて本を読んでいる自分の姿がうつっていた。その自分に白い花弁が降り注いでいる。白くて細長い花びら。それは白菊の花のように見えた。
ぶつり。
また白菊が部屋中に舞い、ガラスにうつる私の肩に花びらが乗った。
天井を見上げた。でも、白いクロスとつり下げ照明があるだけで、ほかには何もない。床を見渡しても、花びらなんて落ちていなかった。
肩に手をやってみた。何もなかった。
指が震えるのを抑えるために、ぐっと両手を握りこんで、読書に戻る。
文字を追いながら、どうしてこんなことになったんだろうと考える。
駄菓子を買った日の夜から、この異変は始まった。雨の夜になると、何かがちぎれる音がするのだ。でも室内を見回しても異常はない。けれど、ぶつり、ぶつりと音がする。
それだけでなく、窓ガラスに白いものがうつるようになった。細長い白い花びらが、室内に降っているかのよう。
最初に見たときは、数枚の花びらがひらひらと落ちているだけだった。
でも、2回目の雨の夜、3回目の雨の夜と、だんだんと花びらが増えてきた。最初の夜から数えて6回目の今夜は、大量の菊の花が花吹雪のようになって私の部屋を埋め尽くそうとしていた。
花びらに埋もれて窒息する――そんなことを考えて、怖くなった。でも、花びらは直接目に見えない。だから、そんなことにはならないだろうと自分に言い聞かせる。
でも――。
ぶつっ。
また、何かを引きちぎる音。この音は一体なんなのだろう。
悪霊とか呪いとか、そういうやつなのだろうか。
私は取り憑かれてしまったのか?
わからない。わからないのが怖い。このまま……どうなってしまうのだろう。
それに、私には一つ気になることがあった。スマホにいれているAIアプリの履歴だ。そこに、私には記憶のない質問履歴が残っていたのだ。
「私を振った男の名前の名前を紙に書いて振木川に流すと、男が目の前からいなくなって、新しい出会いがあるっていうおまじないは、本当に効果がある?」
こんな履歴があった。でも私はそんな質問してない。
そもそも失恋なんてしてなかった。
高校では好きな人ができなくて、少し寂しい思いをしていたくらいだ。
もしや誰かが私のスマホを使って、AIに相談したのだろうか……?
まさか。スマホを人に貸したことはないし、ロックもかけているから誰かが無断で使うことも難しいだろう。
ということは、この質問は私がしたということになる。この質問をしたのはいつなんだろう? 日時をAIに表示してもらったら、それは駄菓子屋に行った日だった。
変な音がして、白い菊の花が舞うようになった日に、私はAIにおまじないの質問しているらしい。失恋、おまじない、紙、振木川――。
このおまじないが今の異変に関係しているのかもしれない。そう思った私は、このおまじないについてネットで調べてみた。でも特に情報は得られなかった。
振木川なんていう地域の情報が入っているのだから、ネットじゃなくて学校で聞いたほうがいいかもしれない。そう考えて、クラスの女子たちに聞いてみたが、誰も知らないという。
それどころか「そんなおまじないがあるんだね。それって効果あるの? 私、試してみようかな」などと言われる始末だった。詳しく教えてくれというから、スマホに残った履歴をもとに教えてあげたけれど。
結局、学校で調査しても何もわからなかった。
私、本当に失恋なんかしたんだろうか? だとしたら、なんで覚えてないの?
学級名簿を机の引き出しから取り出した。リストの上から下まで名前を見ても、これといって心ときめく相手も見つからない。
阿部、内田、北野、桑田……。
あれ、と思った。
誰かが抜けている? いや、そんなはずはないだろう。でも……。
阿部、内田、北野……。
なんだろう、自分でも何が気になるのかわからない。でも、変な気がする。
あ、と気付いて、スマホでインスタを開く。たしか、伊南野くんとかいう男子と相互フォローだった。いなの……。彼は私のクラスメートだったのでは? いや、そんなわけない。クラスメートなら名簿に載っているはずだ。そんな男子は私のクラスにはいなかった。
伊南野くんのインスタは、私が駄菓子を買った日を最後に更新が途絶えていた。
この伊南野くんという男子となぜ相互になったのか、私はまるで思い出せなかった。いつの間にか相互になっていたのだ。でも、インスタではそういうこともあると思って、気にせずにいた。しかし、彼の投稿の最後と、変な音がするようになった日が同じというのが、奇妙な一致に思えて、気味が悪かった。
ぶつっ、ぶつっ。
目の端に白いものが見えた気がした。窓ガラスにさっと視線を走らせる。叩きつける雨を背景に、花びらがゆっくりと床に落ちていく。
泣きたい気持ちになってきたが、私は感情を抑えて、机の上に広げた本に集中することにした。頑張れ、頑張れと自分を鼓舞する。なんとしても真相にたどり着いてみせる。
その本は、『郷土の歴史~市制80年を記念して~』というものだった。個人が書いた本ではなく、郷土の歴史を研究しているグループが共同で書いたものらしい。この80年の間にこの市内で起きた出来事がまとめられている。前書きとして、当時の市長の挨拶文も載っていた。
私は振木川についての記述を探すことにした。もしかしたら、おまじないのことが書いてあるかもしれないと期待して。おまじないのことがわかれば、私に取り憑いているかもしれない霊についても手がかりが得られるかもしれない。そうすれば、この奇妙な現象を止められる手がかりだって得られるかもしれないのだ。
必死に字を追いかける私を嘲うかのように、窓に白い花びらが散った。