第三話 川
アプリが立ち上がり、スマホの画面に「何かお困りですか? お手伝いいたします」というメッセージと入力欄が表示された。
私は少し迷ってから、質問文を入力した。
「私を振った男の名前を紙に書いて振木川に流すと、男が目の前からいなくなって、新しい出会いがあるっていうおまじないは、本当に効果がある?」
AIは即座に回答を出してきた。
「そのようなおまじないがあることは確認できませんでした。でも、失恋した相手の名前を書いた紙を川に流すのは、失恋を乗り越える儀式としては効果がありますよ。過去の恋を乗り越えたら、新しい出会いもきっとあります。私はあなたを応援しています。失恋から立ち直るおまじないは、世界各地にたくさんあります。ほかのおまじないのことも知りたいですか?」
微妙に回答がズレている気がするが、そこは無視して私は気になったことを入力した。
「川に紙を流すのって、環境汚染にならないの?」
いかにも学級委員長らしい質問だなと自分でも思う。
「はい、一般的に紙を流す行為は環境汚染につながります。しかし、水溶紙を使えば、環境にはさほど影響はないでしょう」
水溶紙というのは、水に溶ける紙のことをいうらしい。それに名前を書いて川に流したらいいとAIは言った。
「そのおまじないは、本当に効果がある? 失恋から立ち直れる?」
「はい。そのようなおまじないを実際に試してみるのは、気持ちに踏ん切りをつけるのに適していると考えられます。いわば自己暗示の一種ですね。水溶紙を使えば、環境にも優しいですよ」
環境に配慮した紙ならば、やってもいいんだ……。
AIは嘘をつくことがあるのは知っている。本当に環境汚染にならないだろうか? そんなわけない、とても信じられない。けれど、AIが言ったから、という理由に飛びつくことにした。何もかも忘れて、楽になりたかった。
1時間後。
私は公園の腐った木のテーブルに買ってきた水溶紙を広げ、ボールペンで「伊南野紀翔」と書きこんだ。
朽ちかけているテーブルは表面がでこぼこしていて、そのせいで字はひどく歪んで醜いものになった。でも、どうせ水に流すのだから構わないだろう。むしろ、これぐらい汚いほうがふさわしい気もした。
水溶紙なんて簡単には見つからないだろうと思っていたが、学校近くにある商店街の文具屋に置いてあった。
「最近よく売れるんだよね。水溶紙なんて何に使うの? 学校の課題か何か?」
店のご主人からそう言われて、私は曖昧に笑って誤魔化した。
きっと、おまじないを試す子がほかにもいるのに違いない。
それがさらに私の背を押した。
私は彼の名前が書かれた水溶紙を二つに折り曲げて、まだ食べていない駄菓子と一緒にスクールバッグにしまった。
次に向かうは振木川だ。高校近くのススキ野原の向こう、古い病院のそばを流れる川に、この紙を流せば、伊南野くんは私の目の前からいなくなり、私には新しい出会いがある。
目の前からいなくなるってのが、少し怖い気もする。でも、さすがに死んだりとか失踪したりとか、そういうことではないだろう。もしそうなら、もっと噂になってるはずだ。でも、クラスの女子たちは、このおまじないを試した子に新しい彼ができたということしか言っていなかった。
それに水溶紙がたくさん売れているということは、それだけおまじないをやっている女子がいるということだ。けれど、どこかの学校で男子が死んだとか行方不明になったとか、そんな話も聞いたことがない。
だから、きっと大丈夫だ。きっと気持ちの問題なんだ。失恋した男のことなんか目に入らなくなるっていう、そういう意味で「男が目の前からいなくなる」と言っているのだ。そうに決まってる。
そう自分を納得させていたら、スマホに通知が届いた。伊南野くんがまたインスタを更新している。
「りみち信じて
俺は学級委員長とか全然好きじゃないし
むこうが勝手に俺に惚れてるだけだから
あんなの女として見てないよ
俺にとっては女はりみちだけだよ」
いいね欄にはクラスメートの名前がずらりと並んでいた。そっか、みんなも見てるんだ。
私はもう伊南野くんのインスタは見ないほうがいいんだろうなと、ショックで痺れたような頭で考えながらスマホをしまい、歩き出した。
空を見上げる。だいぶ暗くなってきている。
振木川に着く頃には、日は落ちてしまっていることだろう。
高校のグラウンド脇を通って、ススキ野原を突っ切るようにしてできた小道を歩いていくと、すぐに振木川に到着した。
幅3メートルほどのその川は、ススキ野原より低いところを流れていた。近くに細い階段があったので、そこをおりていくと、小石の河原に出た。といっても、その河原は幅50センチもない狭いものだけれど。
河原に立って、川面を覗き込んでみたが、暗くてよく見えなかった。水の流れる音の大きさからして、そんなに激しい流れの川でもないんだろうなと思った。川に詳しくないから本当のところはわからないけれど。
この振木川は、幅は狭くとも水深は結構あるらしい。もし落ちてしまったら大変なことになる。私は慎重に川と距離をたもち、スクールバッグから紙を取り出した。
彼の名前が書かれている紙は、しかし、もう暗くて字は見えない。
周囲を見回して、人のいないことを確認してから、私はしゃがみ込んだ。川に紙を流す前に、指先を川で濡らしてみた。川の水は思ったとおり冷たくて、少し汗ばんだ手に心地よかった。
AIが言っていたことを思い出す。こういうおまじないの儀式というのは、願いを口に出して言うほうが自分の脳をだませて良いのだそうだ。しかし、何て言おう。彼が私の目の前からいなくなりますように? それとも新しい出会いがありますように? どれもしっくりこない。
どんどんあたりは暗くなっていく。空には星が浮かんでいた。もしも足下も見えないほど日が暮れてしまったら、ススキ野原を突っ切るのに支障が出る。あまり時間はない。急いだ方がいい……それなのに。
ふと、小さなことが気になった。
なぜ振木川なんだろう。
紙を流すのならば、どこの川でもいいのではないだろうか。それなのに、なぜこの川なの?
時間がないときに、何でこんな疑問を思いついてしまったのか。