第九話 『 母の優しさと、新たな道 』
その日の訓練は、フィーネとダリウスの打ち合いから始まった。
開始から十分と経たないうちに、ダリウスは「やめ!」と声を張り上げ、二人の動きを止めた。
「フィーネ。お前の動きは速く、力も強い。だが、その剣は全く活きていない」
ダリウスは、フィーネの木剣を指差した。
「お前は、剣を『振っている』だけだ。まるで、ただの棍棒のようにな。斬る、突く、受け流すといった、剣本来の繊細な技術が、お前の圧倒的な身体能力のせいで、逆に殺されている」
彼の言う通りだった。フィーネの剣術は、リオスが見ても、どこか大雑把だった。彼女は、狼獣人特有の瞬発力と腕力に頼りすぎており、剣を、ただの「リーチが伸びる打撃武器」としてしか使えていなかったのだ。
ダリウスは、しばらく腕を組んで唸っていたが、やがて何かを決心したように顔を上げた。
「よし、方針を変える。フィーネ、お前は今日から剣を置け」
「えっ?」と、フィーネは驚きの声を上げる。
「代わりに、俺が『体術』を教える。お前の本当の武器は、そのしなやかな体と、鋭い爪、そして牙だ。剣という人間の道具に、お前の才能を押し込めるのは勿体ない。お前自身の体を、最強の武器に鍛え上げる」
その提案に、フィーネの目が輝いた。
彼女にとっても、剣はどこか馴染まない道具だったのだろう。自分の体で戦うという方が、よほど本能に合っている。彼女は、嬉しそうにこくりと頷いた。
こうして、フィーネの新たな道が決まった。
次に、リオスが父と向き合う番だった。
二人の木剣が、激しく打ち合わされる。技術だけを見れば、リオスの剣は、一ヶ月前とは比べ物にならないほど、正確で、鋭くなっていた。日々の努力が、確かに彼の血肉となっている。
だが、ダリウスは、息子の剣に「迷い」を感じ取っていた。
動きに、以前のような気迫がない。笑顔はどこか張り付けたようで、受け答えも、無理に明るく振る舞っているのが透けて見えた。
(……だろうな。自分の努力を、いとも容易く踏み潰していく才能を目の当たりにして、落ち込むなという方が無理か)
フィーネの存在は、リオスにとって良い刺激になると思っていた。だが、その才能があまりに規格外すぎた。十一歳の少年が、嫉妬や焦りを感じるのは、当然のことだった。
数合打ち合った後、ダリウスは不意に剣を引いた。
「リオス、今日の訓練はそこまでだ」
「え?父さん、まだ……」
「お前の母さんが、薬草を採りに森へ行く。お前、護衛としてついて行け。これも訓練の一環だ」
「え、急に……?」
リオスは、突然の命令に戸惑ったが、父の目が有無を言わさぬ色をしていたので、素直に頷くしかなかった。
家の前に着くと、リーナがすでに出かける準備を整えて、籠を片手に待っていた。
「母さん、俺も一緒に行くよ。父さんの命令で、護衛だって」
「あら、そうなの?それは助かるわ」
リーナはにっこりと笑ったが、その目は、息子の顔に浮かんだ、わずかな翳りを見逃してはいなかった。だが、彼女は何も言わなかった。
親子二人は、並んで森の中へと入っていく。
しばらくは、無言の時間が続いた。
不意に、リーナが足を止め、道端に生えている奇妙な形のキノコを指差した。
「ねえ、リオス。このキノコ、面白い形をしてるでしょう?『ワライダケ』っていうのよ。食べると、一日中笑いが止まらなくなるんだって。昔、ダリウスが間違えてスープに入れて、大変なことになったのよ」
「へえ……」
リーナの冗談めかした口調に、リオスは気の抜けた返事をした。
彼女は、そんなリオスの様子を楽しんでいるかのように、次々と植物の説明を始めた。
「こっちの蔓を見てごらんなさい。こんなに細いのに、大きな木よりもずっと丈夫なの。なぜだと思う?力を真っ直ぐ受け止めるんじゃなくて、しなやかに受け流して、自分の力に変えるからよ。何でも、大きくて硬いのが強いってわけじゃないのよね」
「あそこの花は、『月見草』。太陽が出ている間は、ずっとしぼんでいて目立たないけど、夜になって、他のみんなが眠ってしまう時間に、一番綺麗な花を咲かせるの。それぞれに、輝ける場所と時間があるのよ」
リオスは、黙って母の話を聞いていた。
そして、その全ての言葉が、自分に向けられたものであることに、気づいていた。
(やれやれ……。なんて優しい母親なんだ。遠回しに、俺を慰めようとしてくれてるのが、バレバレだぞ)
彼の心の中に、温かいものが、ゆっくりと広がっていく。
自分の焦りや、嫉妬。そんな子供じみた感情を、この人は全部お見通しで、その上で、そっと寄り添おうとしてくれている。
彼は、歩みを止めた。
「母さん」
「なあに?」
振り返ったリーナに、リオスは、照れくささを隠すように、しかし、真っ直ぐな気持ちで言った。
「……ありがとう」
その一言に、リーナは、ぱちりと大きく目を見開いた。
いつもの子供っぽい息子とは違う。その表情は、どこか達観したような、穏やかで、少し大人びた笑みだった。
「……あなた、いつの間に、そんな大人みたいな顔をするようになったの?」
リーナの言葉に、リオスは、はっと我に返った。
(やばっ……!つい、素が出てしまった!)
彼は、途端に慌てふためき、十一歳の子供の仮面を被り直す。
「え、ええ!?な、何のこと言ってるんだよ、母さん!俺はまだ、十一歳の子供だって!」
彼は、わざとらしく頭をガシガシと掻きながら、視線を泳がせた。
その狼狽ぶりに、リーナは、くすくすと楽しそうに笑った。
森から帰る頃には、リオスの心は、不思議なくらい軽くなっていた。
フィーネへの嫉妬が、完全に消えたわけではない。だが、それはもはや、彼の心を苛む重石ではなかった。
母の言う通りだ。人には、それぞれの道がある。自分は、自分のやり方で、自分のペースで、強くなればいい。
家に帰ると、庭で、フィーネが新しい体術の型を練習していた。
その動きは、まだぎこちない。だが、その表情は、水を得た魚のように、いきいきと輝いていた。
リオスは、その姿を、今度は素直な気持ちで見ることができた。
彼は、自分の腰に差したショートソードの柄に、そっと触れる。
自分の道は、これだ。
リオスは、口元に、自然な笑みを浮かべた。
明日からの訓練が、少しだけ、楽しみになっていた。