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第七話 『 言葉と、語られぬ痛み 』

あの一件――リオスが内心「風呂場の悲劇」と呼んでいる事件から、数日が過ぎた。

エルデン家には、奇妙で、どこかぎこちない新しい日常が生まれていた。


まず、母リーナによって、リオスには「フィーネとの二人きり禁止令」が発令された。これは、息子をスケベと疑っているわけではなく、むしろ、まだ心の傷が癒えていない少女と、何も分かっていない息子との間で、これ以上の事故が起きないようにという、母なりの過保護な配慮だった。だが、リオスにとっては、それは理不尽な足枷以外の何物でもなかった。


(まるで厳重警備の要塞だな。攻略難易度Sクラスか……?フィーネと話すだけで、母親というラスボスを突破しなきゃならんとは)


当のフィーネは、肉体的な傷は順調に回復していた。リーナにすっかり懐き、まるで雛鳥のように、常にその側を離れようとしない。彼女にとって、リーナは、失われた母親の温もりを思い出させる存在なのだろう。父ダリウスの大きな体にはまだ少し怯えているようだったが、時折、遠くからリオスの方を、何か言いたげな、好奇心と戸惑いが混じった目で見ていることがあった。


リオスは、その視線を感じるたびに、もどかしい気持ちになった。

彼は、フィーネのことをもっと知りたかった。何が好きで、何を恐れているのか。故郷はどんな場所だったのか。だが、彼がフィーネに近づこうとするたびに、リーナの鋭い監視の目が光るのだ。


「リオス、薪割りは終わったの?」

「リオス、自警団の詰め所に、父さんの忘れ物を届けてきてちょうだい」


見事なまでの連携プレーで、彼はフィーネから引き離される。

(これが、俗に言う「母親ブロック」か……。異世界にも存在するとは、恐るべき普遍性だ)


言葉を交わすことができない以上、何か別の方法でコミュニケーションを取るしかない。彼は、十八年分の経験と、物語の知識を総動員して、作戦を練ることにした。


最初の作戦は、「強さのアピール」だった。

(女の子は、強い男に惹かれるものだ。……いや、今はまだ子供だが。少なくとも、頼りになる奴だと思わせれば、警戒心も解けるはずだ)


彼は、庭で剣の訓練をする際、いつもより少しだけ見栄えのする、派手な動きを混ぜてみた。フィーネが、家の中からそっとこちらを見ているのに気づいていたからだ。鋭い剣閃、流れるような体捌き。どうだ、かっこいいだろう、と。

だが、フィーネの反応は、彼の期待とは違った。彼女は、ただ大きな瞳でリオスの動きを見つめているだけで、その表情は読み取れない。むしろ、剣という暴力の象徴が、彼女の古傷を刺激している可能性すらあった。

作戦は、どうやら不発に終わったらしかった。


次の作戦は、もっと地道なものだった。

(腹を空かせていたんだ。美味しいものなら、喜ぶかもしれない)


彼は、森の巡回の途中、木苺が群生している場所を見つけると、熟して甘いものだけを選んで、そっと摘んで持ち帰った。そして、リーナの目を盗んで、フィーネがよく座っている廊下の隅に、こっそりと置いておく。

最初は、戸惑っていたフィーネも、リオスが立ち去った後、恐る恐るその木苺を口にし、その甘さに少しだけ目を見開いた。


それから、リオスの「秘密のプレゼント」は続いた。

森で見つけた、綺麗な鳥の羽根。川で拾った、丸くてすべすべした石。彼は、言葉の代わりに、そうした小さな贈り物で、自分の気持ちを伝えようと試みた。


変化が訪れたのは、作戦開始から一週間ほど経った日のことだった。

リオスが、いつものように廊下の隅に、今度は珍しい花の蕾を置いた時。ふと顔を上げると、少し離れた場所から、フィーネがじっとこちらを見ていた。

目が、合った。

フィーネは、逃げなかった。そして、小さく、ほとんど分からないくらいに、こくりと頷いて見せたのだ。


それは、たったそれだけの、小さな仕草。

だが、リオスにとっては、どんな言葉よりも雄弁な、心の繋がりを感じさせる瞬間だった。彼の胸に、温かいものがじんわりと広がっていく。


その夜、事件は起きた。


真夜中、リオスは、隣の部屋から聞こえてきた、突き刺すような悲鳴で目を覚ました。

「―――!!!」

それは、人間の言葉ではなかった。苦痛と恐怖に満ちた、獣のような叫び声。フィーネの声だ。


彼は、母親の禁止令も忘れ、ベッドから飛び出して隣の部屋へ駆け込んだ。

部屋の中では、フィーネが悪夢にうなされ、ベッドの上で激しく身をよじっていた。

「いや……!来ないで……!父さん……母さん……!」

狼獣人の言葉なのだろうか、途切れ途切れに発せられる言葉は、恐怖に満ちていた。リーナが、必死にその小さな体を抱きしめて「大丈夫よ、フィーネ」と呼びかけているが、声は届いていないようだった。


リオスは、どうすればいいか分からなかった。

彼は、ただ、衝動的に、悪夢と戦うフィーネの小さな手を、強く握りしめた。

その瞬間、フィーネの体の震えが、ぴたりと止まった。

彼女は、ゆっくりと目を開け、涙に濡れた瞳で、自分の手を握るリオスを見つめた。悪夢の恐怖の中に差し込んだ、一筋の光。自分を森で見つけ、毎日こっそりと贈り物をくれた、少年の温もり。それが、彼女を悪夢の淵から引き戻したのだ。


「……リオス……」


か細い声で、彼女は初めて、はっきりと彼の名前を呼んだ。


リーナは、震えるフィーネを優しく抱きしめ、リオスは、その手を握ったまま、そばに座った。

そして、その夜、フィーねは、途切れ途切れに、自分の過去を語り始めた。

言葉と、身振りと、涙を交えて。


彼女が語ったのは、炎と、絶望の記憶だった。


雪深い山奥に、彼女たち狼獣人の、平和な集落があったこと。

ある日突然、人間の男たちが、棍棒と網を持って、村を襲撃してきたこと。

それは、魔獣討伐のような、戦いですらなかった。ただの一方的な「狩り」だった。

家々は焼かれ、抵抗する大人たちは容赦なく殺された。女や子供は、商品として、網で生け捕りにされた。


「父さんは……私の目の前で……」


フィーネは、父が自分を庇い、棍棒で何度も殴られる光景を語った。母が、泣き叫びながら、どこかへ連れ去られていく姿を。

彼女は、他の子供たちと一緒に、ぎゅうぎゅう詰めの鉄の檻に入れられた。

暗く、揺れる荷馬車。何日も続く、恐怖と飢え。


そして、辿り着いたのは、薄汚い街の、地下で行われる闇市だった。

彼女は、まるで家畜のように、値踏みされ、奴隷商人へと売り飛ばされた。

幸運にも、その奴隷商人が別の街へ移動する途中、荷馬車が事故を起こし、その混乱に乗じて、彼女は命からがら逃げ出すことができたのだ。


話が終わる頃には、フィーネは、泣き疲れて、リオスの手を握ったまま、静かな寝息を立てていた。

部屋には、重い沈黙が流れていた。


リオスの心は、冷たい怒りで満たされていた。

この世界の「悪」とは、領域の王のような、規格外の災害だけではない。

人間の、ただの欲望。金のために、何の罪もない村を焼き、家族を引き裂き、子供を商品として売り捌く。その、ありふれた、しかし、どうしようもなく醜い悪意。

彼の胸に、牙猪を殺した時とは、また違う種類の、ずしりとした重みがのしかかった。


(……護る)


彼は、眠るフィーネの顔を見ながら、強く、心に誓った。

この子を、絶対に護る。

森の魔獣からだけじゃない。

この世界にいる、人間たちの、底知れない悪意から。


ふと、彼は母の視線に気づいた。

リーナは、怒ってはいなかった。彼女は、ただ、静かで、優しい目で、息子と、その手の中で眠る少女を見つめていた。その眼差しは、「もう、禁止令は必要ないわね」と語っているようだった。


翌朝。

家の空気は、昨日までとは、まるで違っていた。ぎこちなさは消え、静かで、温かい、家族のような一体感が生まれていた。

食卓で、リオスとフィーネの目が合った。

すると、フィーネは、はにかむように、少しだけ頬を赤らめ、そして、初めて、はっきりとした微笑みをリオスに向けた。


その笑顔は、どんな報酬よりも、どんな力の覚醒よりも、彼の心を強く、満たした。

剣聖への道。ゼロからの道。

それは、ただ強さを求めるだけの道ではない。

こうして、誰かと繋がり、誰かを護る覚悟を背負っていく道なのだ。

リオスは、その本当の意味を、この日、初めて理解したのだった。

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