第五話 『 新たな出会い 』
牙猪との死闘から、季節が一つ巡った。リオスは十一歳になり、その日常には「森の巡回」という新たな役目が加わっていた。父ダリウスの信頼の証であり、彼の成長の証でもあった。最初は父と一緒だった巡回も、今では村の近くの、比較的安全な区域に限っては、一人で行くことを許されるようになっていた。
その日も、リオスは一人で森の中を慎重に進んでいた。
半年前とは比べ物にならないほど、彼の動きは洗練されていた。足音は静かで、五感は常に周囲の気配を探っている。ショートソードの柄に置かれた手は、もはや緊張で汗ばむことはない。それは、彼の体の一部として、完全に馴染んでいた。
(……ん?)
慣れた道のはずが、今日は何かが違った。
空気にかすかに漂う、血の匂い。
彼は即座に身を屈め、木の陰に隠れた。視線を低くして、匂いの元を探る。
道の脇の茂みが、不自然に荒らされていた。地面には、何かが争ったような跡と、引きずられたような血の痕跡が点々と続いている。
(獣同士の争いか……?いや、違うな)
リオスは、卓越した観察力で現場を分析する。血の量が少ない。致命傷を負わせた争いではない。そして、足跡。大型の獣のものではなく、もっと小さい……人間の子供くらいの大きさだ。
(誰かが、怪我をして逃げた……?)
好奇心と、自警団の一員としての義務感。二つの感情が、彼を突き動かした。彼は剣の柄を握り直し、血の跡を慎重に辿り始めた。父に教わった通り、気配を殺し、一歩一歩、慎重に。
血の跡は、森の奥へと続いていた。普段はあまり足を踏み入れない、薄暗いエリアだ。しばらく進むと、大きな岩が折り重なってできた、小さな洞窟のような場所が見えてきた。血の跡は、そこで途絶えている。
そして、洞窟の入り口から、微かな呻き声と、荒い呼吸が聞こえてきた。
リオスは、息を殺して、岩陰からそっと中を覗き込んだ。
そして、彼は目を見開いた。
洞窟の奥でうずくまっていたのは、人間の子供ではなかった。
薄汚れた服、怯えた大きな瞳。そして……頭から生えた、ぴんと張った灰色の獣の耳と、お尻から伸びたふさふさの尻尾。
(獣人……!)
村の大人たちから、物語のように聞かされた存在。亜人とも呼ばれる、人間とは違う種族。噂では、野蛮で、人間を信用しないと言われている。リオスが、本物の獣人を見るのは、これが初めてだった。
それは、狼の獣人の子供のようだった。歳は、リオスよりも少し下、八歳か九歳くらいに見える。片足を痛めているらしく、だらりと投げ出された足からは、血が滲んでいた。
子供は、リオスの視線に気づくと、びくりと体を震わせた。そして、追い詰められた小動物のように、背を壁につけ、牙を剥き出しにして唸り声を上げた。
「グルルルルッ……!」
その瞳には、恐怖と、敵意と、そして絶望の色が浮かんでいた。
リオスは、思わず剣の柄に手をかけ、一歩後ずさった。
だが、彼はすぐにその手を下ろした。
目の前にいるのは、噂に聞く「野蛮な魔物」などではない。ただの、怪我をして怯えている、幼い子供だった。腰に下げた剣が、子供を余計に怖がらせているのだと、彼はすぐに悟った。
(落ち着かせないと……)
彼は、相手を刺激しないよう、ゆっくりとした動作で、自分の剣を鞘ごと腰から外し、地面に置いた。そして、両手を上げて、自分に敵意がないことを示す。
「……大丈夫だ。何もしない」
優しい声色で語りかけるが、子供は警戒を解かない。言葉が通じていないのかもしれない。
リオスは、少し考えた後、背負っていた鞄から、水筒と、昼食のために母が持たせてくれた干し肉を取り出した。彼は、それらを子供と自分の間にそっと置くと、ゆっくりと数歩後ずさり、安全な距離を取った。
獣人の子供は、その行動を、疑いの眼差しで見つめていた。
食べ物と、リオスの顔を、何度も交互に見る。
洞窟の中に、沈黙が流れる。
やがて、空腹が恐怖に打ち勝ったのだろう。子供は、這うようにして慎重に食べ物に近づくと、素早い動きで干し肉をひったくり、洞窟の奥へと戻っていった。そして、飢えた獣のように、夢中で肉を貪り始めた。
その様子を見て、リオスは少しだけ安堵した。
(少なくとも、話を聞く気にはなってくれたか……?)
子供が落ち着いたのを見計らって、リオスはもう一度、ゆっくりと近づいた。今度は、子供も先程のような敵意は見せない。ただ、警戒心に満ちた目で、こちらをじっと見ているだけだ。
リオスは、子供の怪我をしている足に目をやった。木の枝か、あるいは罠の類だろうか。傷口がぱっくりと開き、土や木の葉で汚れている。
(このままじゃ、まずいな)
母リーナから、薬師としての知識を色々と教わっていた。この手の傷は、すぐに洗浄して手当てをしないと、化膿して熱を出し、最悪の場合、命に関わる。
(どうする……?)
リオスは、瞬時に思考を巡らせた。
この子を、村へ連れて帰るか?
いや、それは危険すぎる。村の大人たちが、獣人の子供を見てどう反応するか分からない。「問答無用で追い出せ」と言われるのが関の山だろう。父さんなら分かってくれるかもしれないが、騒ぎになるのは必至だ。
(……なら、ここで、俺がやるしかない)
彼は、覚悟を決めた。
鞄から、清潔な布と、水筒の水を少し取り出す。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくれ。傷の手当てをするだけだ」
彼は、そう語りかけながら、子供の足にそっと手を伸ばした。
子供は、びくりと体を引こうとしたが、足の痛みで動けない。リオスが、ただ純粋に心配していることが伝わったのか、やがて、諦めたように体の力を抜いた。
リオスは、慎重な手つきで、傷口の汚れを濡れた布で拭き取っていく。子供は、時折「くぅん」と小さな悲鳴を上げたが、暴れることはなかった。汚れを落とした後、リオスは鞄に入れていた塗り薬(母特製の、ただの傷薬だ)を塗り、清潔な布で包帯のように巻いてやった。
手当てが終わる頃には、子供の警戒心は、かなり薄れていた。
「……俺はリオス」
彼は、自分を指差して言った。
「君の名前は?」
子供は、しばらく黙っていたが、やがて、か細い声で、ぽつりと呟いた。
「……フェン」
言葉が、通じた。
「フェン、か。いい名前だな」
リオスが微笑むと、フェンは少しだけ、表情を和らげた。
「どうして、こんな所に一人で?何があったんだ?」
リオスが尋ねると、フェンの顔が再び恐怖に曇った。彼は、森の更に奥の方を指差し、怯えたように体を震わせた。そして、両手で、檻のような形を作って見せる。
(檻……?)
その仕草から、リオスは最悪の可能性を推測した。
奴隷商人か、あるいは、獣人を狙う密猟者か。
この世界の暗い一面を、垣間見た気がした。フェンは、おそらく、彼らから逃げてきたのだろう。
話しているうちに、日は傾き、森は急速に暗くなり始めていた。夜の森は、昼間とは比べ物にならないほど危険だ。
フェンの足では、もう遠くへは逃げられないだろう。このままここにいても、夜行性の魔獣に見つかれば終わりだ。
(連れて帰るしかない)
リスクは承知の上だった。
だが、この怪我をした子供を、見殺しにすることなど、彼には到底できなかった。
父は言った。『剣は、誰かを護るための力になる』と。
ならば、今こそ、その力を使う時ではないのか。相手が人間か獣人かなんて、関係ない。目の前に、護るべき弱い存在がいる。それだけで、理由は十分だった。
「フェン、立てるか?俺の村へ行こう。安全な場所だ」
リオスは、フェンに肩を貸した。フェンは、一瞬ためらったが、リオスの真剣な目を見て、こくりと頷いた。
二人で、ゆっくりと森の中を進む。
フェンを庇いながらなので、速度は上がらない。何度も、遠くで獣の遠吠えが聞こえ、その度に二人は身を潜めた。
リオスは、片時も剣から手を離さず、全神経を周囲の警戒に集中させた。それは、彼にとって、これまでで最も長く、緊張を強いられる道のりだった。
一時間以上歩いただろうか。
ようやく、森の出口が見え、その向こうに、村の家々から漏れる温かい光が見えてきた。
リオスは、ほっと息をつくと同時に、再び気を引き締めた。
本当の戦いは、ここからだ。
この獣人の子供を、村に、家族に、どう説明するか。
彼は、隣で自分に寄りかかる、小さな獣人の体温を感じながら、覚悟を決めた。
「大丈夫だ、フェン。俺が、絶対に君を護るから」
彼は、そう囁くと、村へと続く道を、確かな足取りで踏み出した。
この日、この選択が、彼の、そしてこの村の運命を、大きく変えることになる。
そのことを、まだ誰も知らなかった。