第四話 『 初めての森 』
剣の修行を始めてから、半年が過ぎた。
リオスの生活は、単調でありながらも、着実な変化に満ちていた。彼の体は、十歳という年齢にそぐわないほど引き締まり、しなやかな筋肉が薄っすらと浮かび上がっている。毎日の素振りと体捌きの訓練によって、彼の振るう木剣は、もはや子供の遊び道具ではなく、鋭い意志を宿した凶器の片鱗を見せ始めていた。
だが、彼は知っていた。これは、まだ「型」に過ぎない、と。
相手のいない訓練場で、完璧な型を千回繰り返したところで、それは実戦の一度の駆け引きにも及ばない。そのことを、誰よりも理解しているのは、師である父のダリウスだった。
ある日の朝食後、ダリウスは壁にかけてあった自身の剣と、リオス用の短い本物の剣を手に取った。それは、リオスのために特別に作らせた、軽量で扱いやすいショートソードだった。
「リオス。今日は森へ行く」
その言葉に、リオスは目を輝かせた。リーナは、心配そうな顔で夫を見る。
「あなた、まだ早すぎやしませんか?あの子はまだ十歳ですよ」
「リーナ。いつまでも訓練場で遊ばせておくわけにはいかん。剣とは、何のためにある?護身のため、そして、時には命を奪うための道具だ。その重みを、本当の危険の中で理解させにゃならん。でなければ、こいつはただの人を傷つけるだけの鉄の棒を振り回す、ただのガキのままだ」
ダリウスの言葉は厳しかったが、その奥には息子への深い配慮があった。リオスは、その意図を正確に感じ取っていた。
(本当の、冒険の始まりか……)
胸が高鳴る。少しの恐怖と、それを上回る大きな期待。前世の記憶が、これから始まる出来事を「イベント」として捉え、彼の心を煽っていた。
森の入り口に立つと、空気が変わった。
村ののどかな雰囲気とは全く違う、濃密で、生命力に満ちた、それでいてどこか油断ならない気配。巨大な木々が空を覆い、昼間だというのに森の中は薄暗い。見たこともない色のキノコや、不気味な形をした植物が足元に生い茂っている。
「いいか、リオス。森の中では、俺を師と思うな。隊長と思え。お前の五感全てを使って、周囲を警戒しろ。音、匂い、風の流れ。全てが、お前に何かを伝えようとしている」
ダリウスは、それまでの師としての顔から、戦場の指揮官のような険しい顔つきに変わっていた。彼は、驚くほど静かに、獣のように森の中を進んでいく。木の葉を踏む音すら、ほとんど立てない。
一方のリオスは、必死に後を追うが、どうしても足音がガサガサと鳴ってしまう。訓練場と違い、地面は平らではなく、木の根や石が至る所に転がっていた。
「足の運びが悪い。地面の形を、足の裏で『読む』んだ。力を抜いて、体重を乗せる場所を探せ」
「風下に立て。獣は鼻がいい。こちらの匂いを嗅ぎつけられたら、狩りにはならん」
ダリ-アスは、時折足を止めては、リオスにサバイバルの知識を叩き込んでいく。それは、剣の技術とはまた違う、生きるための技術だった。リオスは、十八歳の頭脳でその言葉をスポンジのように吸収していく。理屈はすぐに理解できたが、それを実行するのはまた別の話だった。
一時間ほど森の奥へ進んだだろうか。
不意に、ダリウスがすっと手を上げて、歩みを止めた。彼の視線が、鋭く前方の茂みを捉えている。リオスも釣られてそちらを見たが、彼には何も見えない。
「……いるな」ダリウスが囁いた。「『牙猪』だ。おそらく、縄張りを荒らされて気が立っている。お前の、初陣にはちょうどいい相手だ」
牙猪。村でも時折、畑を荒らす被害が出る、獰猛な猪の魔獣だ。普通の猪よりも二回りは大きく、牙は剃刀のように鋭い。
「こいつは、お前の獲物だ。俺は手を出さん。ただし、本当に命が危ないと感じたら、介入する。……死ぬなよ、リオス」
その言葉の重みに、リオスの喉がごくりと鳴った。
心臓が、早鐘のように打ち始める。
彼はゆっくりとショートソードを抜き、父に教わった通りの構えを取った。
(落ち着け……。相手はただの猪だ。訓練通りにやれば、勝てる)
自分にそう言い聞かせる。だが、彼の足は、わずかに震えていた。
ダリウスが、小さな石を茂みへと投げ込む。
次の瞬間。
「―――グルルルルァァァァッ!!」
猛獣の咆哮と共に、茂みから巨大な影が飛び出してきた。
それは、リオスが想像していたよりも、遥かに巨大で、威圧感があった。血走った目に、涎を垂らした口元からのぞく、二本の禍々しい牙。全身から、明確な殺意が放たれている。
(で、でかい……!)
訓練場の的とは違う。本物の「敵」。
牙猪は、リオスを侵入者と認識すると、地面を蹴って一直線に突進してきた。
(速いっ!!)
リオスは、咄嗟に横へ跳んでそれを避ける。牙猪は、リオスが先程までいた場所を、牙で土ごと抉り取って通り過ぎていった。もし直撃していれば、腹に大穴が空いていただろう。
冷たい汗が、背中を伝う。
(ダメだ、頭が真っ白になる……!)
恐怖。
十八年間生きてきた人生でも、これほど純粋で、直接的な殺意に向けられたことはなかった。体が、思うように動かない。あれほど反復した型も、頭から抜け落ちていく。
牙猪は、一度目の突進を外すと、すぐに体勢を立て直し、再びリオスへと向き直る。
「リオス!ぼっとするな!動け!」
父の怒声で、我に返る。
(そうだ、戦うんだ……!俺は、剣聖に……!)
彼は、自分を奮い立たせ、今度はこちらから踏み込んだ。
「せあっ!」
気合と共に、剣を横薙ぎに振るう。
だが、その一撃は、牙猪の硬い毛皮に弾かれ、浅い傷しか与えられなかった。
「甘い!」とダリウスの声が飛ぶ。
反撃に転じた牙猪が、その巨体でリオスに体当たりをかましてきた。
「ぐっ……!」
リオスは、なす術もなく吹き飛ばされ、地面に背中を強く打ち付けた。肺から空気が搾り出される。
痛い。苦しい。怖い。
様々な感情が、彼の心を支配する。
牙猪は、倒れたリオスに、とどめを刺そうと牙を振りかざして迫ってくる。
(死ぬ……!)
その瞬間、彼の頭は、恐怖の極致で逆にクリアになった。
父の言葉が、脳裏に蘇る。
『相手の力の流れを読め』
『相手が強く押してくれば、引くようにして体勢を崩させろ』
牙猪の動きは、直線的だ。ただ、前へ。
(……ここだ!)
リオスは、地面を転がるようにして、牙猪の牙を紙一重でかわした。そして、体勢を崩した牙猪の、がら空きになった側面へと回り込む。
完璧な型ではなかった。泥だらけの、無様で、必死の動き。
だが、それは、生きるための、最善の動きだった。
彼は、ショートソードを逆手に持ち替え、ありったけの体重を乗せて、牙猪の首筋目掛けて突き刺した。
「―――ブシュッ!!」
生々しい感触が、手に伝わる。肉を切り裂き、骨に当たる、鈍い感触。
牙猪は、信じられないというように目を見開き、断末魔の叫びを上げた。
「ギィィィィィィッ!!」
温かい血が、リオスの顔と腕に降り注ぐ。
巨体は、数秒間痙攣した後、どさりと音を立てて動かなくなった。
静寂が、森に戻ってきた。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、心臓の音だけ。
リオスは、その場に立ち尽くしていた。手についた血の生温かさと、鉄のような匂いに、吐き気がこみ上げてくる。
勝った。
だが、そこに達成感はなかった。あるのは、命を奪ったという、ずしりと重い実感だけだった。
ゆっくりと、ダリウスが近づいてきた。
彼は、リオスの剣さばきを褒めることはなかった。
「……酷いもんだったな」
彼の言葉は、相変わらず厳しかった。
「構えは崩れ、足はもつれ、恐怖に呑まれて完全に動きが止まっていた。お前が生き残れたのは、ただの幸運だ」
リオスは、何も言い返せなかった。全て、その通りだったからだ。
「だが」とダリウスは続けた。「一つだけ、褒めてやる点がある。最後の最後で、諦めなかったことだ。恐怖の中で、それでも目を開き、活路を探した。戦場では、最後に立っていた奴が勝者だ。どんなに無様でもな」
彼は、動かなくなった牙猪を指差した。
「この感覚を、忘れろと俺は言わん。むしろ、絶対に忘れるな。お前が奪った、命の重みだ。この重みを理解せずに振るう剣は、ただの暴力だ。だが、この重みを背負う覚悟がある者の剣は、誰かを護るための力になる」
リオスは、ただ黙って、父の言葉を聞いていた。
帰り道、ダリウスは牙猪の牙を二本切り取り、リオスに渡した。初めての獲物の証だ、と。
それは、ずしりと重かった。物理的な重さ以上に、命の重みが、彼の手にのしかかっているようだった。
村に帰り着く頃には、空は二つの月に照らされていた。
家の前に、リーナが心配そうに待っていた。リオスが泥と血にまみれているのを見て、息を呑んだが、彼が無事なことを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
リオスは、母を見て、ただ小さく微笑んだ。
それは、疲れ切ってはいたが、確かに、一人の戦士が、この世に生まれたことを示す笑みだった。
彼は、自分の部屋に戻り、牙を見つめた。
剣聖への道。それは、輝かしい栄光の道などではない。血と泥にまみれた、獣道を、ただひたすらに進んでいく、そういう道なのだ。
今日の戦いで、彼はそれを、骨の髄まで理解した。
そして、それでもなお、その道を歩き続ける覚悟を、静かに固めるのだった。