第三話 『 修行の始まり 』
翌朝、リオスは太陽が昇るよりも早く目を覚ました。体の節々が、昨日の精神的な疲労を訴えるように重かったが、彼の心は不思議と静かだった。絶望の淵から這い上がり、「剣聖になる」と宣言した手前、ここで寝坊するわけにはいかない。
着替えて居間へ向かうと、すでに両親は起きていた。母のリーナが朝食の準備をしており、父のダリウスは玄関先で大きな斧の刃を研いでいた。二人とも、リオスの顔を見るなり、昨日とは違う穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、リオス。よく眠れたかい?」
「うん、父さん。おはよう」
食卓につくと、いつもより少しだけ豪華な朝食が並んでいた。リーナが焼いた黒パンと、温かい野菜スープ、そして貴重な干し肉のスライス。リーナは何も言わなかったが、それが息子を元気づけるための、彼女なりの優しさなのだとリオスには分かった。
「さあ、しっかり食べろよ。今日から地獄が始まるからな!」
ダリウスが悪戯っぽく笑う。その言葉には、リオスをからかう響きの中に、確かな愛情と期待が込められていた。リオスはこくりと頷き、黙々とスープを口に運んだ。味はよく覚えていない。ただ、その温かさだけが、空っぽだった彼の胸にじんわりと染み渡っていった。
朝食を終えると、ダリウスはリオスを家の裏手にある広場へ連れて行った。そこは、普段は自警団の訓練に使われている場所だった。
「さて、リオス」
ダリウスは、リオスの背丈に合わせて作られた、一本の木剣を投げ渡した。それは、ただの棒切れではなく、重さやバランスが本物の剣に近くなるよう調整された、本格的な訓練用具だった。ずしりとした重みが、十歳の腕にはこたえる。
「お前は剣聖になると言ったな。いいか、剣の道は魔法のように派手じゃない。近道もない。あるのは、ひたすらな反復と、基礎の積み重ねだけだ。それに耐えられるか?」
「うん。覚悟してる」
リオスの迷いのない返事に、ダリウスは満足そうに頷いた。
「よし。ではまず、構えからだ。俺の真似をしてみろ」
ダリウスは、腰を落とし、両手でゆったりと木剣を構えた。それは、シンプルでありながら、一切の隙がない、完成された型だった。
リオスは、前世の記憶を総動員して、その姿を脳に焼き付けた。時代劇やアニメで見た、剣士たちの姿。理屈は分かる。重心を低く、肩の力を抜き、剣先が相手の中心から外れないように……。
(こうか……!)
彼は、頭の中にある理想のフォームを、十歳の体で再現しようと試みた。
だが、現実は非情だった。
「違う、腰が高い!そんな棒立ちでは、子供の一突きで吹き飛ぶぞ!」
「足の開きが甘い!もっと踏ん張れ!」
「剣を握る手に力が入りすぎだ!それでは剣筋が死ぬ!」
ダリウスの容赦ない檄が飛ぶ。
頭では分かっている。どうすればいいのか、完璧に理解している。なのに、体が言うことを聞かない。筋肉が足りず、体幹が弱く、バランスがすぐに崩れる。理想のフォームを思い描けば描くほど、現実の自分の姿とのギャップに、歯がゆさが募った。
(くそっ……!体が、まるで自分のものではないみたいだ……!)
構えだけで、一時間。
太陽が昇り、じりじりと肌を焼き始める頃には、リオスの額からは滝のような汗が流れ、足はガクガクと震えていた。木剣を支える腕は、鉛のように重い。
「……今日はここまでだ」
父の言葉に、リオスは張り詰めていた糸が切れたように、その場にへたり込んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
「情けない姿だな。だが、初日にしては根性だけはあった。褒めてやる」
ダリウスはそう言うと、水筒をリオスに差し出した。リオスはそれを奪うように受け取り、がぶがぶと水を飲んだ。生きた心地がした。
「明日も、日の出と共に始める。遅れるなよ」
父の背中を見送りながら、リオスは思った。
(地獄、か……。本当に、その通りだったな)
だが、不思議と心は折れていなかった。むしろ、できなかったことへの悔しさが、明日への闘志を燃え上がらせていた。
その日から、リオスの日常は一変した。
朝は、日の出と共に起きて、父との訓練。
まず、一時間の構えの維持。最初の頃は十分も持たなかったが、一週間もすると、震えながらもなんとか一時間を耐え抜けるようになった。
次に、素振り。ただ振るのではない。ダリウスが教えるのは、体の軸を使い、剣の重みを利用して、最小の力で最大の威力を生み出すための振り方だった。
「一!」
「二!」
「三!」
父の号令に合わせて、木剣を振るう。
最初は百回振るだけで腕が上がらなくなった。手のひらの皮がめくれ、血が滲み、すぐに豆ができた。夜、母が薬草をすり潰した塗り薬を塗ってくれるのだが、翌朝にはまた同じ場所の皮が破れる。その繰り返した。
五百回。
千回。
来る日も来る日も、同じことの反復。
普通の十歳なら、三日と持たずに音を上げるだろう。事実、村の他の子供たちは、リオスが毎日泥だらけになって素振りをしているのを、遠くから見ては「才能なしのやつが、無駄なことを」と嘲笑っていた。
だが、リオスは辞めなかった。
彼の心の中には、十八歳の精神が宿っている。彼は、この地道な基礎訓練が、どれほど重要かを理解していた。そして、何よりも、前世で何も成し遂げられなかった自分が、今度こそ何かを掴むための、唯一の道だと信じていた。
訓練が始まって一ヶ月が経った頃。
リオスの体には、少しずつ変化が現れ始めていた。無駄な肉が削ぎ落とされ、全身が引き締まってきた。手のひらの豆は硬いタコになり、千回の素振りをこなしても、腕が上がるようになった。
そして何より、彼の目つきが変わった。以前のどこか夢見がちな少年の目は消え、獲物を狙う獣のような、鋭い集中力を宿すようになっていた。
ダリウスもまた、息子の変化に気づいていた。
彼は、リオスの驚異的な忍耐力と集中力に舌を巻いていた。文句一つ言わず、ただひたすらに、教えられたことを反復する。それは、並の子供にできることではない。
だが、それ以上に彼を驚かせていたのは、リオスの「理解力」だった。
ある日の夕方。訓練を終えた後、ダリウスはリオスに言った。
「リオス。剣というものは、ただ力任せに振るうものじゃない。相手の力の流れを読み、受け流し、いなし、こちらの力へと転換する。それが『柔』の剣だ」
彼は、ごく簡単な理合を説明しただけだった。
だが、リオスはそれを、まるで長年剣を学んできたかのように、深く理解した。
「……つまり、相手が強く押してくれば、引くようにして体勢を崩させ、引いてくれば、逆に踏み込んで追撃する。相手の力を利用して、最小の動きで最大の効果を得るってことだよね、父さん?」
ダリウスは、思わず言葉を失った。
それは、彼が何年も戦場で経験を積み、ようやく体で覚えた極意の一つだった。それを、まだ剣を握って一ヶ月の息子が、いとも容易く、言葉で、理論で理解して見せたのだ。
「……お前、なんでそんなことが分かるんだ?」
「え?父さんの説明が、分かりやすかったからだよ」
リオスは、さも当然という顔で答えた。
(危ない危ない……。つい、前世の知識で理屈をこねてしまった)
彼は内心で冷や汗をかいていた。十八歳の頭脳は、運動力学や物理法則の観点から、父の言う「力の流れ」を瞬時に解析してしまったのだ。
ダリウスは、釈然としない顔で唸った。
「……ふん。口だけは達者なようだな。その理屈が体で出来るようになるには、あと十年はかかるわ」
彼はそう吐き捨てたが、その目には隠しきれない驚きと、新たな期待の色が浮かんでいた。
(こいつは……ただの子供じゃない。体の動かし方は赤子同然だが、頭の中には、まるで老練な学者がいるかのようだ。一体、何者なんだ……?)
そして、訓練開始から三ヶ月が過ぎた、ある夜のことだった。
その日もリオスは、月明かりの下で一人、素振りを繰り返していた。日中の訓練だけでは足りないと、自主的に夜の鍛錬を日課にしていたのだ。
風が、彼の頬を撫でる。
木の葉が、さらさらと音を立てる。
彼は、ふと動きを止め、目を閉じた。
(構え、呼吸、力の流れ……)
父の教えを、頭の中で反芻する。
これまで、彼は「頭」で理解したことを、「体」に無理やり命令して動かしてきた。だが、その瞬間、何かが違った。
すっ、と自然に腰が落ちる。
両腕から力が抜け、木剣が体の一部になったかのように馴染む。
吸う息と共に、大地の力が足から伝い、吐く息と共に、その力が体の中心を通り、剣先へと抜けていく。
頭で考えるのではない。
体が、自然に、そう動きたがっている。
心と、体と、剣が、初めて一つになったような感覚。
ヒュッ、と空気を切り裂く音が、これまでとは明らかに違っていた。
無駄な力みが一切ない、鋭く、澄んだ音。
リオスは、目を見開いた。
(……今のは……)
彼はもう一度、同じ感覚を頼りに剣を振るう。
ヒュッ。ヒュッ。ヒュッ。
何度やっても、同じ音がする。これまで千回、一万回と振るってきた素振りが、全く別のものへと昇華した瞬間だった。
「―――ようやく、スタートラインに立ったな」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、いつからそこにいたのか、父のダリウスが腕を組んで立っていた。その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
「父さん……」
「三ヶ月。よく続いたな。普通の素振りから、『剣の型』の素振りになるまで、普通は何年もかかる。お前は、それをたった三ヶ月でモノにしやがった」
ダリウスは、息子の肩を力強く叩いた。
「明日からは、次の段階に進む。覚悟はいいな?」
「……うん!」
リオスは、力強く頷いた。
手のひらはタコだらけで、体はまだ細い。それでも、彼の手の中にある木剣は、もはやただの棒切れではなかった。それは、彼が自らの意志と努力で掴み取った、最初の「力」の証だった。
二つの月が、静かに父と子を見下ろしている。
才能なき少年の、ゼロからの道。
その一歩目は、確かに、今、踏み出されたのだった。