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秦の誓い  作者: rona
序章 戦国時代の幕開け
9/73

礼・分・名の論

 司馬光は、晉の分割について先に挙げた才と徳に関わる史論のほかに、前にも史論を論じています。長いもので典拠が多く、私の手に余るものとは思うのですが、試みに譯してだけおきたいと思います。誤りはお許しください。



 少しだけこの文について導入をつけておくと、この文は礼、分、名、というものを扱った意見文です。


 礼とは秩序、制度、規範のように基準となるものだと思います。その基準として取り上げられるのが分と名で、分とは自らの存在する場所・立場であり(父子、兄弟、君臣などを含む)、名とは各個人のもつ意味や存在価値などに関わる物事の本質などのこと、と、とらえられるかもしれません。


 ただこれは個人の意見です。


「名」については『大学』の中に、「治国平天下」や「格物致知」を述べた中に、「正名」という項目があり、「格物致知」も「名」、つまり物事の本質を追求することかと思い、私は生きておりますが、これも個人的な意見です。


 まずはとりあえず読んでいただき、何かを感じていただければと思います。



 臣光が申し上げます、臣が聞きますに、天子の職は礼よりも大きいものはなく,礼は分より大きいものはなく,分は名より大きいものはないものでございます。何を礼というのでございましょう?紀綱こそここれでございます。何を分と申すのでしょう?君・臣こそ是でございます。何を名というのでございましょう?公、侯、卿、大夫こそ是でございます。


 そもそも四海の広い世界、兆民の人々がおるなかで、天子は制を身一人に授かり、絕倫の力、高世の智があられるとはもうせ、天子が自ら奔走して各事業に服す必要がないのは,礼をその紀綱となしておられるからでございます。このために天子が三公を統べ、三公が諸侯を率い、諸侯が卿大夫を制し、卿大夫が士・庶人をおさめておるのでございます。


 貴いものが位の低いものに臨み、位の低いものは貴いものに従います。


 上のものの下のものを使うこと、心腹が手足を運ぶことのごとき使いようは,木の根本が枝葉を制するようで、下のものの上のものに仕えること、手足が心腹を衛るようなのは、枝葉が木の本根を庇うようなものであります。そしてそののちに上下はお互いに助け合い国家は治まり安んぜられるのでございます。


 だから天子の職は礼よりも大きいものはございません、そう申しあげるのです。


 周の文王は易を順序立てるにあたり、乾、坤をはじめにおかれました。孔子はこれに辞をつなげて申すには「天は尊く地は卑しく,そのために乾・坤が定まった。卑と高はそのためにならび,貴賤は位におるのである。」そうおっしゃいました。


 これは君と臣(父子もしかり)との位は、天と地との位の替えることのできないようであることを申したのでございます。


 春秋は諸侯を抑え、王室を尊び、王人は勢力はかすかといえども、諸侯の上に順序立てられたのでございます、このために聖人が君臣を示すに当たっては惓惓けんけんとしてその熱い忠誠心を表さないことはなかったのでございます。


 天子には、夏の桀王や殷の紂王のような暴君があり、殷の湯王や周の武王のような仁君がございますが、人はそれぞれの王に帰属し、天はそれぞれの王に命を与え、君臣の分とはまさに節を守りて死に伏すべきのみがあるだけだったのでございます。


 このために紂の庶兄・微子びしが紂に代わっておれば殷の始祖である成湯(湯王)は天に配食はいしょくされ、呉の季札きさつが呉王の君位を受けておれば太伯たいはくはまだ犠牲の血で祀られておったでしょう、しかしながら二子(微子・季札)は国を滅ぼそうとも君位を侵そうとはしなかったのです、誠に礼の大節を用い乱を為さなかったのです。


 だから礼は分より大なるものはないと申し上げたのでございます。


 そもそも礼とは、貴と位の低いものを弁じ、親疏を順序立て、群物を裁断して、庶事を制定し、そのものの名(本質)が著れないことはなく,そのものの器(外形)が形としてわからないことはないのでございます。


 名(本質)でこれに使命を授け、器(外形)でこれを区別する、そののちに上下は粲然としてともがらができます、これこそ礼の大きなたていと(軸・基礎)なのです。名と器が既に亡びれば、そこでどうして礼が一人存在することがありましょうや!


 昔、仲叔于奚ちゅうしゅくうけいが功が衛にあり、邑をいただくのを辞退して繁纓はんえい(馬上の装束・軍装か?)で朝廷に出朝することを望みました。孔子は彼に多く邑を与えたほうがましだとしました。これは名と器とを、人にないがせにさせるべきではなく、君がつかさどるべきだということだったのです。政が亡びれば国家もそれに伴って衰微するのです。


 衛君は孔子がやってきたのを幸いに政治を取らせましたが、孔子は先ず名を正すことを望みました。名(物事の本質)が正しくなければ民は手足の置くところもないだろうと思ったからです。繁纓とは,小さなことがらです,そうではあっても孔子はその乱れを惜しんだのです。名をただす、細務でございます、そうではあっても孔子はこれを重視したのでございます。


 誠に名器が既に乱れれば上下の秩序をそれぞれ保つ理由がなくなるのでございます。だから事は微かなものから生じて顕著にならないものはなく、聖人は慮を遠くにめぐらして、だからよくよくその微細なものを謹んでそれを治めるのでございます。一方で聖人ではない多くの者は近き出来事は識知してはおりますが、必ず物事が顯著になってのち物事を救おうとするのでございます。


 微かなものごとを治めようとすれば力を用いる量はすくなくして功は多く、その勢いが顯著なものを救おうとすれば力をつくしても及ばないのでございます。


 易に申すではございませんか、「霜を履んで堅冰けんぴょう(氷)至る」(坤・初六・爻辭)、と。尚書に申すではございませんか、「一日二日のわずかに万事の幾(機・きざし)はあるのだ(一日二日萬幾)」と。この類のようなものでございます。


 だから分は名より大きいものはないのでございます。


 嗚呼ああ幽王ゆうおう厲王れいおうが德を失い,周の道は日びに衰え、綱紀は散壞しました、下が上をしのぎて替り、諸侯は征役を専らにし、大夫は政事をほしいままにし,礼は大体の什の七八を喪ったのです。


 そうではあっても文王、武王のまつりはなお綿綿とあいしょくされたのは、おもうに周の子孫がなおよくその名分をまもったためなのでございます。何をもってこれをいうのでしょうか?


 昔、晉の文公が大功を王室に立てた時、葬礼に隧道すいどう(トンネル)を用いることを襄王に願いました。襄王は許されませんでした、おっしゃるには、「王のあかしである。いまだ德が天子に代わるものがいて二王があったことはない、またこれは叔父あなた(周は姫という姓の国、文公は同じ姫姓の晉の君主で周の親族に当たる、叔虞という周の武王の息子が封じられた?)のにくむところでございましょう。そうでなければ、叔父あなたは地をたもちて隧をほりなさい、またこれは何という願いであることよ!」文公はそのためにおそれてあえては違わなかったのです。


 このために周の地がそうとうの小国よりも大きくなく、周の民がちゅきょの小国より多くなく、そうではあるのに数百年を経歴し,天下に宗主となり、晉、楚、齊、秦の強国といえどもあえて害を加えるものがおらなかったのは、どうしてかと申しますと、ただ名分をもってなお存続したためにございます。


 季氏きしの魯におけるような,田常でんじょうの齊におけるような、白公はくこうの楚におけるような、智伯ちはくの晉におけるような、その勢力がみな君をって自らが君主となるに足るにいたるとも、そうではあってもついにはあえてなさなかったのは、どうしてその力が足らずに心が忍びなかったのでありましょう、ただ奸名や分を犯して天下が共に己を誅するのをおそれたからにございます。


 今、晉の大夫たちはその君を暴蔑ぼうべつし、晉国を剖分ふぶんし、天子すら既に討つことができなくなり、また彼らを寵秩ちょうちつするようになり、諸侯の列に加えしめ、ここに區區にわかれていた名分はたふたたび守ることができなくなり、並びに棄てられたのでございます。先王の礼はここに尽きたのでございます!


 烏呼ああ!君臣の礼は既にこぼたれ、そのために天下は智力でたがいに雄長を図ることとなり、遂に聖賢の後の諸侯となさしめた者も、社稷しゃしょく泯絕びんぜつしないものはなく、生民の類は糜滅びめつし尽きようとしたのでございます、なんと哀しいことではございませんか!


 ある者はこの時に当たり、周室の微弱、三晉の強盛により、許すことなからんと欲すといえども、できなかったと思ったののでございます!


 これは大いにちがいます。


 そもそも三晉は強いといえども、どうして天下の誅を顧みずして義を犯し礼を侵しますでしょうか、つまり天子に請わずして自立しましょうか。天子に請わずに自立すれば、悖逆はいぎゃくの臣となり、天下にもし桓公や、文公のような君主がおれば、必ず礼義を奉じて彼らを征伐したでしょう。


 今は天子に請うて天子は許されたのでございます、ここに天子の命を受けて彼らは諸侯となりました、誰が天子の命を得て彼らを討てましょうぞ!このために三晉は諸侯に列なることができたのでございます。


 三晉が礼を壊したのではございません、すなわち天子(周・威烈王)が自ら礼を壊されたのでございます。



 以上です。専門用語が多く、礼、分、名をどうとらえるかなど、難しいところなのですが、そこは読者にお任せします。何かの参考になればと思い、記録に残しておきます。


 正名については、興味のある方は、『大学』をお読みいただければと思います。二宮尊徳が熟読した書です。


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