甘茂の宜陽攻略
先の文中にあった、甘茂の宜陽攻めに関しては次のような逸話が残されています。
周の赧王の七年(B.C.三〇八)、秦王は甘茂に命じて、魏と協力して韓の宜陽を攻めさせることにします。秦は宜陽を攻める前に、魏と應で会合を行っていますから、その時にそのような宜陽攻めの話が出たのかもしれません。向壽が副将となりました。
甘茂は向壽を秦王(悼武王)の元に戻して確認をさせました。
「魏は、臣に聴いております。王よ、どうか宜陽を伐つのをおやめくださりませ」
王は甘茂を息壤という土地に迎えて、その理由を問いました。
「宜陽は大県にございます、実際は郡でございましょう。
(ちなみに春秋時代は県が大きく郡が小さいとされたが、戦国時代になって行政区分が逆になり、郡が大きく、県が小さいとされるようになっていた)
今、王の秦軍が、いくつかの天険(函谷関や三崤の険を指す)を背にして、行軍すること千里、遠征して、宜陽を攻めるのは難しゅうございます。
それにでございます、たとえを出しましょう。魯の曾参は孝行で有名な人物でしたが、魯には曾参と名前が同じものがおり、ある時、人を殺しました。
ある人がそれを曾参の母に告げました。しかし曾参の母は織物を織っており、動きませんでした。しかし「曾参が人を殺した」と告げるものが三人となるに及んで、杼(機織りの道具)を投げて機から下り、牆を越えてにげたと申します。
臣の才能は曾参に及ばず、王様に信じられている程度も臣は曾参が母に信じられていた程度に及ばず、臣を疑うものは三人にとどまらないのです。臣は大王が杼を投げられないか、心配しております。
昔でございます、魏の文侯が、樂羊を将として中山国を攻めた時、三年がかりでその土地を攻略しました。樂羊が魏に帰って論考褒賞を行うにあたって、文侯は樂羊に讒謗の書、一篋を示したと申します。樂羊は再拜稽首(最高の敬礼)をして申しました。
「このたびの戦功は臣の功ではございません、君の力にございます」と。
今、私は羇旅の臣でございます(甘茂は,楚の国の下蔡という土地の人、羇旅とは外国出身の大臣を指すと思われる)。わが国の重臣である樗里子、公孫奭が韓を挟んでこの宜陽攻めを議論した時、王は必ずこれを信じられるでしょう。これは王様が魏王を欺いた上に、臣が公仲侈(韓の相)の怨を受けることになるということです。」
悼武王は答えておっしゃいました。
「寡人は讒言を聴かぬようにしよう、願わくば子と盟おう」
そこで息壤に盟いがなされたのです。秋になって、甘茂と庶長の封(人名)は軍を率いて宜陽を伐ちました。
翌、八年(B.C.三〇七)甘茂は宜陽を攻めましたが、五月かかっても陥落しません。樗里子と公孫奭ははたしてこのことについて諫言をしました。王は甘茂を召して,兵を罷めようとしました。
当時の軍隊は兵農一致、五カ月田畑をほったらかしにして戦争に明け暮れていたら、民の心は離れてしまいます。諫言はある意味妥当だといえるでしょう。
しかし甘茂は申しました。
「息壤はどこへいったのですか!」
王はお答えになりました。
「ここに有る!」
そしてさらに兵を増派し、甘茂を佐けたのです。そして首級、六万を得て、遂に宜陽は陥落したのです。
韓の相、公仲侈は秦の国へ謝りを入れ、秦に平を請いました。
ここに秦は韓に大勝利をおさめ、要衝である宜陽を手に入れたのです。




