恵文王が薨じ、張儀も逝く
張儀はそして北をさして燕へいき、燕王に説いて申しました。
「今、趙王はすでに入朝いたし、河間をささげてそして秦に事えました。(ここは勢いで弁舌を行っていると注はしています)
大王が秦に事えなければ、秦は甲兵(武装した兵)を雲中、九原に下すでしょう。そして趙を駆って燕を攻めるでしょう。そうすれば易水、長城は大王の有ではございませんでしょう!
かつ今の時において、齊、趙が秦に対する態度はまるで郡や県のような立場で、あえて妄りに師を挙げて攻伐はいたしておりません。今、王が秦に事えられれば、長く秦の郡県として臣従するであろう齊、趙に(攻撃されるような)患いはないでしょう」
そう説きました。
燕王は常山の尾の五城を献じて和を請いました。
張儀はこれらのことを帰って報じようとしましたが、まだ咸陽に至らぬうちに、秦の惠王が薨じ、子の武王が立ちました。
武王は太子である時より,張儀のことを快く思っていませんでした。即位に及び、群臣も多くが張儀を攻撃し短所をあげつらいました。
諸侯は張儀が秦王と隙(仲たがい)があると聞き、みな連衡策に畔き、また連縦策に従いました。
周の赧王の五年(B.C.三一〇)
張儀は秦の武王に説いて申しました。張儀の最後の弁舌になります、聞いてみましょう。
「王のために計ると、東方(韓・魏)に変が有り、変があって後に王はその変を機会として多く地を割きて得ることができると考えられます。臣が聞きますに齊王ははなはだ臣を憎み、臣のおる所は、齊は必ずそれを伐つと申しておるそうでございます。
臣は願いますに、その不肖の身、それを引っ提げて、そして梁(魏の都・大梁)へ行きとうございます。齊は必ず大梁を攻撃するでしょう。齊と梁が兵を交えて互いに去ることができない、王はその間隙に韓を伐たれませい。三川(周の地)に入り、天子を奉じ、図籍を案じる、これこそ王業でございます!」
この説は以前、巴、蜀へ攻め込む際にも別の選択肢として張儀が推薦した策です。張儀は周を傾けて秦とすることを考えている、そう注は指摘しています。
武王はそれを許しました。
齊王は果して梁を伐ちました。梁王は恐れました。
張儀は申しました。
「王よ、患うるなかれ!齊に兵を罷めさせるよう策がございます、やらせてください。」
そしてその舍人(身近な家来)を楚にゆかせました、そして楚の人を借使(代理)として齊王に申しあげさせました。
「甚だしいことですなあ、王が張儀に秦で手柄を建てさせるのは!」
齊王はおっしゃいました。
「何故?」
楚の使者は申しました。
「張儀の秦を去ったのは固より秦王の謀計でございます。
張儀は齊と梁が互いに攻めている間に秦に韓の三川(周の周囲の土地)をとろうとさせたのです。
今、王が果して梁を伐たれれば、これは王にとって内は国を疲れさせて外は与国を伐つことになります。そして張儀を秦王に信じさせるまでに至るのです」
そこで齊王は兵を解きて還りました。
張儀は魏に相として仕えること一年、卒しました。
張儀の、周の領地近辺である韓の三川へ侵攻しろ、という策は、武王によって宜陽の攻略としてこののち実施されることになるのですが、それはもう少し後のことです。張儀の建言が、そこにどこまで影響を与えていたのかはわかりません。




