張儀、各国に説く
張儀は帰って報告しました。秦王は六邑で封じ、武信君を号させました。
そこで張儀はまた東にいき齊王に説いて申し上げました。
「連縦策を説く人が大王に説くには必ず申すでしょう。
『齊は三晉に蔽われており、地は広く民は衆い。兵は強く士は勇敢で、雖有百の秦が有るといえども、また齊をどうすることができようか』と。
大王はその說を賢であるとし、その実際を計られないのです。
今、秦と楚は女を嫁がせ婦を娶り、昆弟の国となりました。韓は宜陽を献じました。梁は河外を放棄しました(河外とは、これまでに述べましたが、秦では黄河屈曲以東の地、梁では黄河屈曲以西を河外といいますが、張儀は秦の立場でこの場合は話しています)。趙王は入朝し、河間(黄河にはさまれた土地)を割いて秦に事えました。
大王が秦に事えなければ、秦は韓、梁に仕向けて齊の南の地を攻めさせるでしょう。趙兵を悉くして、清河を渡り、国が一日にして攻られれば、秦に事えようとしても、できませんぞ!」齊王はそこで張儀の説いた内容に従いました。
張儀は齊を去って、今度は西へ行き趙王に説いて申しました
「大王は天下を収め率いそして秦をしりぞけました。秦兵はあえて函谷關を出ないこと十五年でした。大王の威は山東の国々に行われ,敝邑・秦も恐懼しました。
そこで甲を繕い兵を研ぎ、田作に力め粟(穀物)を積み、愁いて居り恐れて処り、あえて動搖し心乱れて、動きを見せることはなかったのです。
ただ秦の大王の意思があってこれらの状況を督過するだけでした。
今、秦の大王の力で、巴、蜀を征服し、漢中を合併し、両周(東周・西周)の地域を包囲し(赧王元年(B.C.三一四)に韓、魏が連衡策に応じたことを指すか、韓・魏は両周を包んでいる)、白馬の津を守ります。
秦は僻遠ではございますが、そうであっても、心忿り怒を含むの日は久しかったのです。今、秦に敝甲あって兵軍を澠池に疲れさせました。
どうか願わくば河を渡り、漳水をこえ、番吾に拠り、邯鄲の城下に会して、どうか願わくば甲子に合戦しましょうではありませんか。殷の紂王の事蹟を正すのです。」
周の武王は殷の紂王を伐つにあたり、癸亥に商(殷の首都か)の郊外に陳しました。甲子の昧爽、紂王はその旅を帥いること林のようで、牧野というところで会戦しましたが、前の徒は戈を倒にし、その後ろの兵を攻めそして北げました(北と背は同じか)。そして遂に殷に勝ち、非道の王・紂王を殺したのです。張儀はそれを引き趙を威しています。紂王を出し、趙を威すとは、趙を侮るも甚だしいと、胡三省は注しています。
「謹しんで使臣をして先に左右に聞かさせました。
今、楚と秦とは昆弟の国となりました。そして韓、梁は東藩の臣を称しており、齊は魚鹽の地を献じました(当時、齊は海産物が多くとれ、鹽(塩)がよくとれました)。これらは趙の右肩を断ったことになります。そもそも右肩を断たれて人と闘い、その黨を失って孤り居り,危いことが起こらないように求めるとしてもできるでしょうか!
今、秦が三將軍を発し、その一軍が午道を塞ぎ、齊に告げて清河を渡らせ、邯鄲の東に軍をおき、一軍を成皋に軍をおかせ、韓、梁をしむけて河外に軍させます。一軍は澠池に軍させ、四国と約束して一つとしそして趙を攻めれば、趙の支配する土地をわけて四つにすることでしょう。
臣がつつしんで大王のために計りますに、莫如秦王と面してお互いに約束し、そして口で互いに結びつき、常に兄弟の国となることです」
趙王はそこでそのようにしました。
当時において、趙は山東で最も強く、また連縦策の盟主でした。張儀が趙に説くには、もっとも言葉を費やして、力説をしたようです。




