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秦の誓い  作者: rona
第2章 恵文王の時代
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張儀、商於を楚に示す

 周の赧王たんおうの二年(B.C.三一三)


 秦の右更の疾(樗里疾か?)が趙を伐ちました。りんを抜き、その将・莊豹を虜にしました。


 秦王は齊を伐とうとして、齊、楚の從親をうれいました。そこで張儀を楚に至らせ、楚王に説いて申させました。


 ここに張儀の、苛烈な楚への攻撃がはじまります。


「大王は誠によく臣(張儀)に聴かれます(信用されます)。齊との関を閉じ盟約を絶ちましょう」


 注に拠ると、關を閉ざすというのは、いにしえの列国はそれぞれ関尹せきのやくにんを置いており、敵国のししゃがやってくれば、関尹がそこで告げて、そこで行理?(官職か)が節で使者をむかえました。関を閉じればつまり敵国の使者をふせぎ絶つことになり、国交を通じさせないことになった、とされます。民間の交流は続いたのでしょうか、その辺は私にはわかりません。


 さて、張儀は続けます。


「臣は請います、商於しょうおの地、六百里を献じ、秦の女(皇女)をして大王の箕帚そうじそばめと為すことができ、秦、楚がむすめとつがせ婦をめとり、長く兄弟の国とならんことを」


 齊と国交を断って秦と結べ、というわけです。


 楚王はよろこびてそれを許しました。群臣はみな賀しましたが、陳軫が独り弔辞を述べました。


 王は怒っておっしゃいました。


寡人わたしは師を興さずして六百里の地を得た。どうしてとむらうのだ?」


 陳軫はこたえて申しました。


しからず(そうではございません)。臣がこのことを觀ますに、商於の地は得ることができないで齊と、秦が連衡します。齊と、秦が力を合せれば、うれいは必ずやってくるでございましょう」


 王はおっしゃいました。


「どのようなことがあるのだ(有説乎)?」


 陳軫はこたえて申しました。


「それ秦が楚を重んじる所以ゆえん(りゆう)は,その齊があるためでございます。今、齊との関を閉じ約を絶てば楚は孤立いたします。秦はどうして貪夫、孤国であるのに楚に商於の地、六百里を与えましょうや!張儀が秦に到れば、必ず王にそむきます。これは王が北は齊と国交を絶ち、西は患いを秦に生じるということでございます。両国の兵が必ずともに至りましょう。


 王のために計るならば、ひそかに合していつわりて齊と絶つことが最良です。使人を張儀にしたがわさせ、もし吾に地を与えるのならば、それから齊と国交を絶ってもまだおそくはありません。」


 王はおっしゃいました。


「願わくば陳子よ、口を閉じよ、また言うでない、そして寡人かじん(わたし)の地を得るのを待て!」と。


 そしてしょう印を張儀に授け、厚く張儀におくりものをしました。そして遂に齊との関を閉じ、約を絶って、一将軍をして張儀に随行して秦に至らせました。


 張儀はいつわりて車からちました。朝しないことが三月にもなりました。


 楚王はそのことを聞かれ、おっしゃいました。


「儀は寡人が齊と絶つことがまだ十分ではないと思っておるのか?」


 そこで勇士を宋へ遣わして宋の符を借りさせ(当時、楚は齊と断交しているので宋を通じて使者を派遣し宋の符(手形の一種か?)を借りて齊へ向かわせて)、北へむかって齊王をののしらせました。


 齊王はたいへん怒りました。節(国交の印?)を折りそして秦につかえました。ここに齊、秦の国交が結ばれました。


 張儀はそこでちょう(朝廷に現れる)しました。楚の使者に見えて申しました。


あなたはどうして地を受けないのですか?某より某に至る、広さ(東西の幅)と(南北の幅)が六里の土地です。」


 使者はいかりました。還りて楚王に報じました。


 楚王も大いに怒りました。兵を発して秦を攻めようとしました。陳軫が申しました。


「もう軫は口を発して言うことができますでしょうか?


 ここは秦にまいないするに一名都をもってするに因り、秦と兵を並べて齊を攻めるにしくものはございません。これこそ我が楚が地を秦にくして、つぐないを齊に取る、というものにございます。


 今、王はすでに齊と国交を絶たれ、欺むかれたことを秦に責めようとされている。これはわれわれが齊、秦の交りを合わせさせてから天下の兵がやってくるのを求めるようなものにございます。国は必ず大いに傷なわれましょう!」


 楚王は聴かれませんでした。屈匄をして師をひきいて秦をたせました。秦もまた兵を発して庶長の章をして楚軍を擊たせました。


 三年(B.C.三一二)


 春、秦の軍隊と楚が丹陽に戦いました。


 楚の軍は大いに敗れ、秦は楚の甲士八万を斬り、屈匄と列侯、執圭たち七十余人をとらえました。秦はついに漢中郡を取りました。


 楚王はことごとく国內の兵を発してそしてまた秦を襲いました。藍田に戦いましたが、楚の軍は大敗しました。韓、魏は楚がくるしんでいることを聞き、南下して楚を襲い、鄧に至りました。楚の人びとはそのことを聞き、すぐさま兵を引き返して帰り、両城を割いてそして和平を秦に請いました。


 見事な張儀の舌先三寸といえましょう。しかしここまで見事に人を操れるものなのでしょうか?この頃、秦の恵文王の時代、秦は南方へ勢力を伸ばし、巴蜀を手に入れ、漢中を手に入れ、着々と勢力を伸ばしていきます。


 張儀は魏の人ですが、秦の相として、楚との戦いで、王を手玉に取り、領土を切り取っていくように描かれています。これは張儀の活躍を描いた史料を基に当時の時代が描かれていることが背景にあるのではないかと私は思います。


 当時は縦横家の時代です。燕の内乱を孟子や蘇秦、蘇代に絡めてみたり、一人の人物が大きな影響力を発揮したような、まあいわばホラのような話ともとれる話が続いているのですが、どこまで信憑性があるのか茫然とするばかりです。


 しかし第一次の史料によるべきですから、これにしたがって歴史を再構築するべきです。しかしここまで大きな力を弁舌が発揮する、というのには私は「歴史の記録されかた」、いわゆる史料というものの扱い方・性格について慎重であることを考えさせられざるを得ません。


 いや、現実というものが、社会というものが、個人の思い込みと、主観で成り立っているのかもしれません。


 いや、きりがないですね。次へと進みましょう。


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