孟子の弁説
諸侯はこの事態にまさに燕を救うことを謀ろうとしました。齊王は孟子にいっておっしゃいました。
「諸侯の多くが寡人を伐つことを謀ろうとするのは,何でこれを待ちうけよう?」
孟子はこれに対えて申しました。
「臣は聞いております、七十里で政を天下に為したものは、湯が是でございました。いまだ千里の土地を持っているのに人を畏れる者を聞いた事がございません。」
湯というのは殷の聖王です。湯王や周の文王がいた土地はわずか(ここでは七十里としている)であったものの信望が集まり、人々が帰属し、ついには大きな勢力となり、徳の力をもって、国を正したといいます。一方で、当時の齊の土地を千里とするのは大きいという表現であると考えられます。孟子はやんわりと徳治のことを暗示します。
「書に申しております、『我が后を徯,后来たらばそれ蘇みがえらん。』と。
これは『尚書』仲虺の誥の辞といいます、ただ新釈漢文大系では朱注は誤りで、逸文だと注あり、このへんは原文にあたってみないとわかりません。
なおこれは暴政を受けている民が、誰か助けに来てくれ(わが君を待つ)、優れた君主が来てくれたら(君が来れば)、私は甦るであろう(それ蘇みがえらん)、といっている文章です。孟子は続けます。
「今、燕はその民を虐げ、王が往きて燕を征されました。民は以為いました、まさに自分たちを水火の中から拯ってくれるのだと。簞食壺漿し(自らのそまつな食べものや飲みものを挙げて)そして王の師(軍隊)を迎えました。」
ここまで徳で暴政を救うことを孟子は述べてます。孟子の弁舌は続きます、蘇秦や張儀の弁舌のように。
「もしその父や兄を殺し、その子や弟を拘束し、その宗廟を毀ち,その重器(国の宝器)を遷す。このようであれば、どのようにして政を天下に行うことができましょうや!天下はもとより齊の強さを畏れております。今、また地が倍になり、そうであるのに仁政を行わなければ、これにより天下の兵が動くことになるでしょう。王はすみやかに命令をお出しになり、拘束しているもののうち旄(老いたもの)や倪(弱きもの・若きもの)を帰らすべきです。その重器を止め、燕の衆と謀り、燕の君を置いて後に燕を去らば、それでようやく内乱を止めることができるほどでございましょう。」と。
齊王は聴かれませんでした。
すぐに燕人が叛きました。正確には、当時、燕は内乱状態にあったので、治安を維持することが困難になったのでしょう。
王はおっしゃいました。
「吾ははなはだ孟子に慚じる。」
孟子のいうことを聴かなかったので、混乱が起きたことを恥じたわけです。陳賈という臣下が申しました。
「王よ、患えめさるな。」そして孟子に見え、申しました。
「周公とはどのような人でございますか?」
孟子はいいました。
「古の聖人である。」
陳賈は孟子をやり込めようとします。さらにいいました。
「周公が管叔に商(殷)を監督させたのに、管叔は商をもって畔きました。周公は管叔がまさに畔こうとしていることを知って使いさせたのでしょうか?」
聖人であるのに乱がおこることを予測できなかったことを主張し、齊王も聖人であるのに反乱がおきるのを予測できなかったと記録に残そうとしたわけです。
周公とは周の武王の兄弟で、武王が崩じた後に遺子の成王を奉じて周を導いた人です。魯の国の開祖でもあり(息子の伯禽が国に封じられた)、孔子が非常に尊崇した人です。これは周公が武王から国を引き継いだ後、菅叔という人物に殷の旧領地を任せた時の話を示しています。
孟子は発言を受けて単純にいいました。
「知られなかったであろう。」
陳賈がさきほどの意図を果たそうと、さらにいいました。
「そうであれば、聖人もまた過ちがあるのでしょうか?」
孟子はいいました。
「周公は、弟である。管叔は、兄である。周公の過ちもまた宜なるかな!」
周公も武王もそして管叔も周の文王の息子たち、兄弟でした。ですが周公が武王のあとを引き継いで周の政治を見るようになったあと、菅叔は自分ではなく周公に周の政治が任されたことに不満を持ち、反乱を起こしたのです。ここでは周公が肉親の情愛に耐えず、管叔を登用してしまったことを孟子は述べています。
「かつ古の君子は、過まてばすなわちそれを改めた。今の君子は,過てばそれに順う。(改めないでそのままにする)
古の君子においては、その過ちは日月の食(日食・月食)のようである。民はみなそれを見た。その更まるに及んでは、民はみなそれを仰いだ。今の君子は、残念ながらただそれに順う(そのままにしておく)だけではないのです、またそれによってその辞をするのです。」と。
孟子は昔の君子は過てば改めたのに、今の君子はいいわけをされますなぁ、と述べて、齊王を痛烈に皮肉ったわけです。孟子の才気がほとばしっています。
是歲、齊の宣王が薨じ、子の湣王・地が立ちました。
この文を書くにあたり、孟子の原文も少し見ましたが、『資治通鑑』は意味に従って文章を変えたりしているようです。また自分の意味のとれてない部分があります。また原文などを見ていただければ幸いです。




