齊、燕に介入す
さて時代は、周の赧王の時代に入ります。
元年(B.C.三一四)。
秦人が、義渠を侵し、二十五城を得ました。義渠とは、戎狄の国名です。
顯王の四十二年に秦は義渠を県とし、行政組織に組み込んだとありましたが、その時にはその君を臣とした、とあるだけでした。確かにすでに義渠を得たとはされていました。しかし今、また侵して二十五城を得たというのは、先の文は義渠の君を臣としただけで、義渠の国は秦に臣属したとしてもまだ滅びていなかったのです。そして秦は徐々に義渠の国を蚕食しその土地を侵略した。
今、二十五城を得た、というのは、義渠の国の領土で秦がとる土地が余すところほとんどなくなったのでしょう。だいたい秦が諸侯を兼併した事例を見るに、その国を飲み尽くさなければ止まりませんでした。だから義渠の国も秦の版図に飲み尽くされてしまったのでしょう。
さてこの年、魏の人が秦に叛きました。秦の人は魏を伐ち、曲沃を取ってその人を魏の国に帰しました。また韓を岸門に破りました。韓は太子の倉を人質として秦に入れそして講和しました。
燕で子之が王となること三年、国內は大いに乱れました。将軍の市被が燕王の太子の平と子之を攻めることを謀りました。齊王は人を派遣して太子に申しあげてお伝えしました。
「寡人(わたくし)は太子がまさに君臣の義を飾り、父子の位を明らめようとされるのを聞きました。寡人の国はただ太子の命ぜられるまま、行動をいたします。」
つまりあなた(太子・平)が子之を討伐する軍を挙げれば加担しましょう、そのようなことを述べたわけです。
そそのかされた太子はそこで党を結び衆を聚めました。市被をして子之を攻めさせましたが、克てませんでした。それどころか市被は反えって矛を返し、太子・平を攻めました。難を構えること(戦うこと)数カ月、燕の内乱の死者は数万人となり、百姓(国民)は悼み恐れました。
齊王は章子をして五都の兵を将い、北地の衆に因ってそして燕を伐たせました。「都」とは「邑」の大きなもの、とあります。齊の北の国境(北地)の大きな都市の民を率いて攻め込んだわけです。
齊軍の向うところ、燕の士卒は戦わず、城門は閉じられませんでした。齊人は子之を取り(つかまえ)、子之を醢(しおづけ?)にしました。そしてついに燕王噲を殺しました。
齊王は燕に攻め込む前に、当時齊にいた、孟子に問うておっしゃいました。
(『資治通鑑』が以下に引く文は『孟子』にあるのかもしれませんが、注意を要します。自分はうまく訳せていません。孟子が燕を攻めることについて賛成したのか、賛成しなかったのかは議論があるところです。次の章でも、孟子の論が取り上げられていますが、それは後に見ましょう)
「或るものが寡人(わたし)に謂うには燕を取るなかれといい、或るものが寡人に謂うには之を取れという。萬乗の国をもって萬乘の国を伐つ。五旬(五十日)にして燕を挙げ、まだ余力があるであろうか。しかし取らざれば、必ず天殃(天の災い)があるだろう。だが一方で燕を取れば何如(どうなるだろう)?」
孟子は対えて申しました。
「燕を取って燕の民が悦ぶならば燕を取りなさい、古の人にそのようなことを行ったものが有りました。武王が是でございます。燕を取って燕の民が悦なければ取りめさるな、古の人にこれを行ったものが有ります。文王が是です。
萬乗の国で萬乗の国を伐つ、簞食(簞とは竹器のことで食とは熟食、煮ものを食べることだとあります)壺漿(壺の水、もしくは壺の酢や調味料か?)で王の師(軍隊)を迎える。(そのような様子であれば)どうして他(の手段)がありましょうや?人が水火を避けるようなものでございます、水がますます深く、火がますます熱ければ、またまた燕の民も転じて他国(齊)へ行くでしょう。」と。




