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秦の誓い  作者: rona
第2章 恵文王の時代
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孟嘗君の登場

 靖郭君せいかくくんには子が四十人有りました。そのいやしいめかけの子をぶんといいました。文は智略に達し優れており、余りがあるほどでした。


 四十人もの子供の中から抜きんでたこと、特に賤しい身分からい上がったことが、孟嘗君もうしょうくんの性格や資質に影響を与えたのかもしれません。


 文は靖郭君に財を散じて士を養うことを説きました。靖郭君は文に家の主として賓客ひんかくを接待させました。賓客は争ってそのちょうしょを誉めました。みなが靖郭君に文をあとつぎとするよう願いました。


 靖郭君がしゅつすると、文が嗣いで薛公せつこうとなり、号して孟嘗君と申しました。


 孟嘗君の孟とはあざな(呼び名)で、嘗とは薛のかたわらにある邑の名だったようです。大きな都市ではなく、小さな邑を所領としていたのでしょうか。そのようなことも、孟嘗君の性格を暗示させます。


 孟嘗君は諸侯の游士ゆうしや有罪のものや亡人ぼうじん(戸籍などから逃げ出したものか?)を招致し、みなにやしきを与えてやり厚遇しました。そのうえで親戚があるものはそれらを救ってやったので、食客は常に数千人おり、おのおのが自分のことを孟嘗君が親しくしてくれているものであるとし、このことによって孟嘗君の名は天下に重んじられました。


 しかし、司馬光は孟嘗君についていい印象をいだいていないようです。次のように述べています。


 臣・光は申します。


「君子の士を養うのは、民のためをもってします。易(周易しゅうえき)に申します。「聖人、賢を養い、もって萬民に及ぼす。」(卦の彖辭たんじという個所からの引用)と。


 それ賢者は、その德は化をあつくし俗を正すことができ、その才は大綱を整頓し紀律を振るわすことができ、その明はともし遠きをおもんばかることができ、その強は仁を結び義を固めることができます。


 大きいものでは天下を利益し、小さいものでは一国を利益します。このために君子は士の禄を豊かにして士を富まし、士の爵をたかくして士を尊びます。一人を養って(模範とし、その模範を)萬人に及ぼすことこそ、賢を養うの道なのです。


 今、孟嘗君の士を養う方法は、智愚ちぐを考えず、臧否ぞうひ(善い悪い)をえらばず、その君の禄を盗み、私党をて、虛誉きょよを張り、上はその君をあなどり、下はその民をうごめかす。


 これは奸人かんじんの雄であって、どうしてたっとぶにたるでしょうか!


 書(尚書)に申しております、「じゅ(殷王・紂の字)天下の逋逃ほとう(悪者、正確には逃げ出したもの)の主となり、淵藪えんそう(淵や藪)にあつまる。」と。これこそ孟嘗君のことである。」と。


 かなり厳しい意見のようです。


 孟嘗君についてはもう一つエピソードがあります。そちらにも、司馬光が意見を附けているので記します。


 孟嘗君は楚に招聘され、楚王は孟嘗君に象床しょうしょうを遣わしました。象床とは象牙で作った床、つまり寝台か腰かけだったようです。


 登徒直とうとちょくという人がこの象床を送ることになりましたが、行こうとしませんでした。孟嘗君の門人の公孫戌こうそんじゅつに伝えて申すには、


「象床のあたい(値)は千金である。かりにこれを毫髮はくはつ(わずか)でも傷つければ、妻子を売ってもつぐなうに足りない。足下きみわたしが行かなくてもすむようにしてくれれば、先人の宝剣があるから、どうかそれを献じさせてほしい。」


 ということでした。


 公孫戌は許諾します。そして孟嘗君に入見にゅうけんして申しました。


「小国のみなが相印しょういんを君にお預けする所以ゆえん(理由)は,君がよく貧窮のものを振わせ達させ(救い)、亡びそうなものを存し、絶えたものを再び興して継がれるからです。そのために君の義を悦ばないものはなく、君の清廉を慕わないものはないのです。


 今、始めて楚に至りて象床を受ければ、まだ至っていない小さな国はいったい何をもって(どんな高価なものが有れば)君を歓待できるでしょう!」


 そう申したのです。


 孟嘗君は「そのとおりだ。」とおっしゃいました。そして遂に象床を受けられませんでした。


 公孫戌ははしりて去りましたが、まだ中閨ちゅうけい(宮中の門、圭と呼ばれる宝玉の形をしているので門の中に圭と書くようである)に至らないうちに、孟嘗君は召して彼を戻らせ、おっしゃいました。まてまて、といったわけです。


きみはどうして足どりも高く、こころざし(気分)も揚がっているのだ?」


 そこで公孫戌は本当のことをこたえました。孟嘗君はそこで門のはんしょして申しました。


「よく文(孟嘗君)の名を揚げ、文のあやまちを止め、わたくしに(自分は)宝を外に得るものが有れば,すみやかに入りて諫めよ!」と。


 司馬光の論を見てみましょう。


「臣光は申します。


 孟嘗君はよく諫言を用いたというべきでしょう。もし仮にその言が善ければ、詐諼さけんいつわり)の心をいだくといえども、なおそれでもその言葉を用いようとする、ましてや忠を尽くし、わたくし無く、その態度でその上に仕えるものであれば、なおさらでありましょう!


『詩経』に云うではありませんか「葑を採り菲を採る、下體をもってするなかれ。」と。


 孟嘗君はこのようであったのです。」


 ここでは、やや孟嘗君は評価を戻しているようです。


 なお文中に出た『詩経』の文は、解釈難しく、深入りしません。


 ほうというのは大根や蕪のような野菜で、それも当時は下体(根っこ)ではなく、葉の部分を主食としていたために、「大根は葉をたべるものだよ、根っ子じゃないよ」というような詩だったと思うのですが、毛伝ですか?鄭箋ですか?集伝ですか?などの解釈は奥がかなり深いのでここでは扱いません、専門家の本を読んでいただくしかないと思います、すいません。



 さて韓の宣惠王せんけいおう公仲こうちゅう公叔こうしゅくを両用して政治をしようとし、繆留びゅうりゅうに問いました。


 繆留はこたえて申しました。


「不可です。晉は六人も卿を用いて国が分かれました。齊の簡公かんこう陳成子ちんせいし闞止かんしを用いて殺されました。魏は犀首さいしゅ張儀ちょうぎを両用して西河の外が亡びました。


 今、君(王)が彼らを両用されれば、その力の多い者は內に党をて、その力のすくない者は外権(外国の権力)をりるでしょう。群臣が內に党をたてればその党の主はおごることがあり、一方の主が外に交りを為せば国の地が削られることがあります。君(王)の国はあやういでしょう。」


 王がどうお答えになったか、それは記されていません。


 ここに『資治通鑑』巻二、周紀二は終わっています。この最後の繆留の言葉は、次の章の張儀の活躍を暗示しているのかもしれません。


 ともかく、話は続いていきます。


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