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秦の誓い  作者: rona
第2章 恵文王の時代
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靖郭君、齊の国政に関わる

 話を続けます。


 周の顯王けんおうの四十五年(B.C.三二四)。


 秦の張儀ちょうぎが軍隊を率い魏を伐ち、せんを取りました。


 蘇秦そしんは燕の文公ぶんこうの夫人と密通しました。易王えきおうはそのことを知りました。蘇秦は恐れ、そこで易王に説いて申しました。


「臣が燕に居れば燕を重からしむことはできません。齊におればいいのです。そうすれば燕は重じられるのです」と


 易王は蘇秦の申し出を許しました。


 そこで蘇秦はいつわって罪を燕に得たふりをし、齊に逃げました。齊の宣王せんおうは蘇秦を客卿かくけいとしました。蘇秦は齊王に宮室を高め、苑囿えんゆうを大きくすることを説き、そして宣王の自分の居所を豪奢にする、という意を得ることができました。そうすることで、齊を疲弊(蔽)させ、燕のためにはかろうとしたのです。


 四十六年(B.C.三二三)になりました。


 秦の張儀と齊、楚のしょう嚙桑げつそうで会合しました。


 韓、燕がみな王を称しました。趙の武靈王ぶれいおうのみ独りよしとせず、申されました。


「王であるその実態が無いのに、どうしてその名にろうか?」と。


 洛陽には周の王がまだおられます。趙の民に自らを呼ばせるのに『君』としました。


 四十七年(B.C.三二二)になりました。


 秦の張儀が嚙桑より還りて秦の相を免じられ、魏に相となりました。魏をまず秦につかえさせ諸侯にこれにならわせようとしたのです。


 魏王は張儀を相としましたが、秦に仕えること(連衡策)は許しませんでした。秦王は魏を伐ち、曲沃きょくよく平周へいしゅうを取りました。


また秦が張儀の待遇を厚くすることがますます甚だしくなりました。


 四十八年(B.C.三二一)になりました。


 周の顯王が崩ぜられ、子の慎靚王しんせいおうていが立たれました。


 治世は四十八年の長きに及びました。しかしその末世は各国が力をつけ自立し、王を僭称するようになりました。周王の悩みはいかほどだったのでしょうか。


 この年、燕の易王が薨じ、子のかいが立ちました。燕の乱れが始まります。


 齊王は田嬰でんえいを薛に封じました。薛とはいにしえは魯に属した地域だったようです。齊王は田嬰を号して靖郭君せいかくくんとしました。


 靖郭君は齊王にいって申しました。


「五官の計(はかりごと、建言)は、毎日聴いて、頻繁にご覧になるべきものでございます」と。


五官については、「五官とは、五大夫の事を典ずる者である、云々」、とあることを、胡三省の注が述べています。それを今省きます。


 ちょっと正確に意味をとれなかったからです。諸侯には三卿と、五大夫があったとあり、当時の官制の枢要を担ったもの、官職であるとは推測できますが、それ以上は私の手に余るようです。


 ただ蘇秦が齊に説いたとき、「三軍の良、五家の兵」という言葉を出しています。齊では古くから優秀な家臣がおり、それらの代表的なものが、これらの五官を占めていたことは十分考えられます。しかしそれ以上はわかりません。


 ともかく当時の行政官の報告を聞きなさい、と、靖郭君は齊王に勧めたわけです。


 王はその言葉に従いました。しかししばらくするとそれにき、ことごとくそれらの行政のことについて靖郭君に委ねるようになりました。靖郭君はこのことにより齊の権力を自らに集め、もっぱらにするようになりました。


 また靖郭君は薛に城をもうけようとしました。


客(食客、才能があるため農事ではなくその知識をもって寄食しているもの)に靖郭君にいって申す者がおりました。


「君は海の大魚のことを聞かれたことがないのですか?網も止めることができず、かぎくことができないのに、水からうごいて水を失えば、おけらありにも制せられます。


 今、齊という国は、大魚における水のように、君にとっての水なのです。君は長く齊の実権をたもつことができ、齊の国を動かせるのに、どうして小さな薛のほうに力を注力し、城を築こうとなさる!


 もし薛に気をとられることによって齊の実権を失えば、薛の城をたかくして天に到るとも、たのむに足りましょうか!」


 そこで城をつくること(築くこと)を行いませんでした。


 「蕩」という文字には、動く、という意味のほかに、ゆったりとした、という意味、また放蕩という言葉があるように、気が緩む、酒色などにふける、という意味もあるようです。


 先の個所で、齊王は蘇秦に献言されました。宮室や苑囿を整備することを勧められ、工事を実施しましたが、これらの土木工事には、我々が想像がつかないくらい、人の力を費やしたはずです。


 靖郭君も気が緩んで、国政を牛耳るよりも、自らの封地に力を注ごうとしました。ただ国王とは違い、それを止める人物が靖郭君にはいました。ここではそれが対比されているのでしょうか。そこまではわかりません。


 国王は土木工事に明け暮れました。靖郭君は気を引き締め、政治に没頭しました。それが、歴史のあやを生み出し、流れを形作っていきます。


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