張儀の活躍、始まる
さて、ここからは平板な歴史記述が続きますが、みてみましょう。
周の顯王の三十九年(B.C.三三〇)。
秦は魏を伐ち、焦、曲沃を囲みました。魏は少梁、河西の(黄河以西の)魏の地を秦に入れました。
二十九年に魏はすでに河西を秦に献じて和を請うていましたが、今そこでその地をいれたのです。
四十年(B.C.三二九)。
秦は魏を伐ち、河を渡り、汾陰、皮氏を取りました。焦を抜きました。
楚の威王が薨じ、子の懷王・槐が立ちました。
宋公・剔成の弟の偃が剔成を襲い攻めました。剔成は齊に逃げました。偃は自立して宋の君となりました。
四十一年(B.C.三二八)。
秦の公子の華、張儀が師(軍隊)を帥いて魏の蒲陽を囲み、攻め取りました。
張儀は秦王にお伝えしました。蒲陽をまた魏に与えられんことを、公子の繇をして魏に人質にされんことを、と。
儀は、そして魏王に説いて申しました。
「秦の魏を待遇することは、はなはだ厚いではございませんか、魏は秦を礼しないべきではございません。」
魏は張儀の言葉により、ことごとく上郡の十五県を入れて感謝しました。
当時上郡の土地には長城が築かれ、秦への備えがなされていたとされます。それらがことごとく秦の手に入ったことになります。
秦が魏に与えたものは小さく、魏が秦に与えたものは大きい、史官は張儀が秦のために計ったことのたいへん巧みであったことをのこしています。
張儀は帰って秦の相となりました。
周の顯王の四十二年(B.C.三二七)。
秦は義渠を県とし、その君を臣としました。義渠とは、西戎の国名で、秦はそれを吸収して県としたのです。
ついで秦は焦、曲沃を魏に帰しました。
すでに取ったものをまたこれを帰す。秦の魏を扱うのは、赤子を手のひらや股の上で弄ぶようだ、と胡三省は語っています。
ただ、曲沃は確か晉の時代からの伝統のある土地で、『詩経』や『春秋左氏伝』において、この土地をめぐる物語を読んだ記憶があります。この土地は宗祀上において、魏が失ってはいけない土地だったのかもしれません。土地を、人や、宝物と交換する話はこののちも出てきます。これらの土地は、何らかの犠牲を払って、取り戻されたのかもしれません。
張儀は魏の人です。この時期の記載は、秦が魏を一方的に攻めている記載に満ちています。これは張儀の才能による面があったのかもしれません。張儀は、魏のことを熟知していたのではないでしょうか。
しかしです。不思議なことが起こります。
それは、これ以降、秦が魏を攻めなくなった、ということです。
前代の孝公の時代から、秦がひたすら魏の土地を蚕食していったことはここまででみてきました。しかしここからは、ある国の領土が主に狙われることになります。
韓、魏、趙を攻めてないわけではありませんが、秦は中央を避けます。秦が十五年間、連縦策をとった国々を攻めなかった、そういう話を胡三省が否定し、『通鑑』の文にも連縦策は敗れた、そうありました。しかし実際は連縦策は生きていたのではないか、機能していたのではないか、そういう疑いも否定できない気がします。
そしてこれまでひたすらに削られてきた魏への秦の攻撃を止めたのも、魏のことをよく知っていた、魏と繋がりをもっていた張儀ではないか、そういうことも考えられます。
ただ、本当のことはわかりません。十五年間攻めなかった、二年後に連縦は敗れた、どちらも本当だった可能性さえあります。一方では続いているように説かれ、一方ではなくなっているように説かれれば、連縦策の論者と、連衡策の論者と、見解が異なればそれぞれの奉じた歴史も異なり、二つの見解が同時存在した可能性もあるのです。本当のことはわからない、そうとしか言えません。
※実際は大いに魏を攻めているようです、すいません。
あと、また張儀は楚に遊んだこともあったと記録(『史記』だったと思います)に残っています。このことが、今後秦の楚との関係に、交渉に、大きな影響を与えた可能性があります。
まあ、それは措いておきましょう。続きを見たいと思います。
四十三年(B.C.三二六)
趙の肅侯が薨じました。子の武靈王が立ちました。博聞の師を三人、左右司過(左・右の司過か)を三人置き、先ず何事も先君(粛侯)の貴んだ臣の肥義に問い、その秩を加えました。
四十四年(B.C.三二五)
夏、四月、戊午、秦は初めて王を称しました。
衛の平侯が薨じ、子の嗣君が立ちました。
衛に胥靡(鎖につながれ労役をするもの)で亡げて魏にゆき、魏王の后のために病を治したものがおりました。嗣君はそのことを聞き、五十金でその胥靡を買うことを請いました。五回、使者が往復しましたが、魏は胥靡を与えなかったので、そこで左氏の都市を胥靡に易えようとしました。
左右のものは諫めて申しました。
「一つの都市で一人の胥靡を買うことは、よろしいのでしょうか?」
嗣君は答えました。
「子の知るところでない!そもそも治には小さいものはなく、乱に大きなものはないのだ。法が立たないで、誅があたらないと、十の左氏の都市があろうとも益はないのだ。法が立ちて、誅がさだまれば、十の左氏の都市を失おうとも、害はないのだ。」
魏王はこれを聞いておっしゃいました。
「人主の欲とは、きかねば不祥であるだろう。」
そこで魏は衛へと載せて往って、胥靡を獻じました。
これは申不害、韓非子(皆、法家)を学んだものがこのような說をなしたのだろう、そう注は言っています。
少し立ち止まってみましょう。
軽い刑を受けた人が逃げ出した。そして逃げ出した人が魏王の後宮にまで出入りし、后の病を治した。当時の医術を学んでいた人だったかもしれません。
そもそも、この人は何の罪で刑を受け、どのようにして逃げ出したのでしょう。衛の平侯は咎めず、皇太子の嗣君が即位するに至って、刑を問われるようになりました。
嗣君はこの刑人を捕らえることに執念を燃やします。使者が往復する数、実に五回、左氏の都市と代えてでも、この刑人を取り戻すことを新しい君は願います。
魏の王の言葉は正直、正確に意味が取りづらかったのですが、仕方がないだろう、そういうことで、刑を受けた人は衛へ戻ります。そしてそのあとはわからない。新王が、誅殺したのだとおもいますが、わからない。
後宮に出入りできるということは、刑を受けた人は宦官だったのでしょうか?女性だったのでしょうか?
興味が尽きないところですが、詳しいことは謎です。ひょっとすると、『史記』などに記載があるのかもしれませんが。
なお、嗣君はまたあとで少しだけ出てきますので、この人の法家としての主張が、どのような結果を招いたかを見ていただければと思います。




