蘇秦、各国に説く
ここからつづけて各国の王に蘇秦が説く場面が続きます。それを見ていきましょう。
蘇秦はまず魏王に説いて申しました。
「大王の地は四方に千里で、地は名目上は小さいといわれます。そうではあるものの、田舍、廬、廡(人々の住居など)は密接して存在し、かつては芻(まぐさ)をつくるための草原や家畜を牧する土地がないほど密集して人々は住んでおられました。
このように人民が衆いので、車馬が多いことは、日夜道路を行くものが絶えないほどで、道には轟轟、殷殷と音が響き、三軍(国王の軍隊の部隊)の衆が通っているようです。」
ここは面白い表現です。
ここには当時の土地に人が密集した地域と人の少ない地域の差があったこと、道路というものが魏にはあり、頻繁な交通があったものの、それらは当時においては珍しかったことが記されています。
蘇秦の弁舌は当時の状況をえぐり、描写していきます。『史記』にはさらに詳しい描写があるようですが、それは皆さんにお任せすることにします。
さて、蘇秦は続けて説きます。
「臣が噂に伝聞で聞きますに、大王の国の力の大きさを量りますに人の数は楚を下らないとのことでございます。
今、また聞きますに、大王の卒につきましては、武士が二十万、蒼頭が二十万、奮撃が二十万、廝徒が十万いて、戦いに備えているとのことにございます。車は六百乗、騎は五千匹とお聞きします。」
各兵卒を合計してみます。実に七十万の兵を魏は抱えていたことになります。
燕、趙については兵の数は語られていませんが、韓は数十万、齊、楚が後から出てきますが、齊が帯甲・数十万、楚が帯甲・百万と称しています。土地を秦に大きく削られても兵が七十万いた魏は、なお当時の強国と言えたでしょう。
また、呉起などを輩出したように、密集した土地は、進んだ文化をもたらしたのではないでしょうか。魏は多くの人材を輩出しています。細かく軍が分けられているのも、魏の先進的な文化を記しているのかもしれません。
(なお、ちなみに武士とは、武卒という兵士のことだそうです。蒼頭は、青帽(青い帽子)をつけた兵士のこと。奮撃は、軍中の勇士を簡び、あえて力を奮い敵を撃つものを異に(別に)したとあります。廝徒については、薪をとる卒を廝という、とあります。輜重兵でしょうか。騎についてはもう述べたかもしれませんが、古くは、車戦を用い、戦国になって始めて騎兵を用いました。車と、騎は、その戦場での使用方法を異にしていて、場合によって使い分けたのだろう、とあります。)
話をつづけます。蘇秦は王に説いています。
「そのような強国で、人民の多い国であるのに、王は群臣の説を聴いて、そして秦に臣事されようとされている!
だから敝邑(我が国)の趙王は臣をして愚計をのべさせ、盟約(連縦策)を奉じたのです。大王は詔をあきらかにして盟約の承認を王に詔べられるべきです。」
燕では秦との関係の薄さを説き、趙では兵力を糾合することを説き、韓では割くべき土地がなくなってきていることを説いています。そして魏では土地は狭いものの人口が多いことを蘇秦は説いています。
謁見は一発勝負だったのでしょうか?それとも何回かに分けて行われたのでしょうか?もし一回しかチャンスがない、一回に賭けるしかない、そういう時に的確に国情を掴み、トップである各王の心を蕩かす言葉を述べていったとしたら、蘇秦という人はやはり天才だったとしか言えないでしょう。
ここに魏王は蘇秦の意見を聴き入れました。
次の記述は、蘇秦が齊王に説いて申したことになります。
蘇秦は説きます。
「齊は四塞(四方を塞がれた)の国でございます。
地は四方の長さが二千余里、帯甲は数十万おり、粟(穀物)は丘や山のように積み上げられています。
齊の軍である、三軍の良きものたち、五家の兵は、進むことは鋒や矢のようで、戦うことは雷霆のようであり、その展開し解けることは風雨のようでなめらかであります。
もし軍役があれば、泰山を背にして戦い、清河をすら越え、渤海をすら渉るような、勇敢なものしかおらないのでございます。
中心都市、大きな都市として知られる臨淄に存在する七万戸について、臣が聞き及びますに、戸ごとに三男子をこえる人がおられるとか。遠くの県(地域の単位)より兵の徴発を待たなくとも、臨淄の兵卒はもともとの七万戸を三倍した数、つまり二十一万おられるのでございます。
臨淄ははなはだ富んで実っており、その民は闘鶏、走狗、六博、蹴鞠し、楽しむほど豊かで富があります。
臨淄の塗は、車の轂(軸)がぶつかり、人の肩がすれあい、見わたすかぎり衽が連なって帷のようで、多くの人たちみなが汗をふるえば雨が降るようになります。
それほど臨淄の人は多いのです。
さてでございます、韓、魏が秦を重んじ畏れる理由は、秦と境界の壤を接するためでございます。韓・魏と秦の兵が出てともに当たれば、十日ならずして戦うことになり、勝つか、生き残るか、亡びるかの機は十日の間に決するのです。
韓、魏が戦って秦に勝っても、韓・魏の兵(軍隊)は半減し折かれます。それでは四方の各国との国境は守れず、戦っては勝てません。そこで韓・魏は危亡の状態となります。そのため秦の後に随うだけとなるのです。
だから韓、魏は秦と戦う事態を重くみて、秦の臣となるのを軽んじ、連衡策を優先するのです。
今、秦が齊を攻めようとすればそのようにはなりません。秦は韓、魏の地を背にし、衛の陽晉の道を通り過ぎ、亢父の険を通過するのでなければ遠征できません。秦とこの齊とでは車の車輪は軌を同じにすることができず、騎は続いたり、並んでいくことができません。
齊の百人が険を守れば、秦の千人といえどもあえてとおり過きることができないのです。
秦は深く入ろうとしても狼顧(狼のように振り返る)せざるをえず、韓、魏がその背後から襲いかかるのを恐れます。そのためにあえて恫疑(脅す)、虛喝(虚勢を張る)、驕矜(高飛車にでる)するだけで実際には齊へと進まないのです。
このように秦の齊を害えないことは明きらかでございます。だから秦はよくよく自分が齊をどうすることもできないことを考え、そのため齊が西面して秦に事えるようにさせようとするのです。
だから群臣の計は過っています。今、秦に臣事するような名(外形)はなく、強国となる実(現実)があるのです、臣はこのために大王が臣の説くことにわずかでも意を留められ、計られることを願うのです!」
齊王は蘇秦の話を聞き、秦に臣事しないことを許しました。
蘇秦はつづけて齊の西南に、楚の威王に説いて申しました。
「楚は天下の強国でございます。地は四方の長さが六千余里、帯甲は百萬、車は千乗、騎は万匹、粟(穀物)は十年を支えるほどございます。これは霸王の資にございます。
これまでに秦の害うところは楚にまさる国はございませんでした。秦は楚とぶつかり、楚が強ければ秦は弱く、秦が強ければ楚は弱かったからでございます。その勢力は両び立ちません。
大王のためにお計り申し上げます。連縦策をとり、秦を孤立させるよりよい策はございません。
臣は請いねがいますに、山東の国々をして四時の献を(秦ではなく)楚に奉り、そして大王の明詔を承諾させ、社稷を委ねさせ、宗廟のことを奉告させ、士の策略を練り、兵の勢いを厲しくし、大王がそれらの国の兵たちを秦に用いることをあきらかにしたいものです。
だから、臣の説く連縦策をとれば諸侯は地を割いて楚に事え、これまでのように連衡策をとれば楚は地を割いて秦に事えるしかないでしょう。
この二つの策はたがいに結果の着地点のことなることはとても遠いものでございます。大王は何れに居られますか?」
そこで楚王もまた蘇秦に連縦策をとることを許しました。




