張儀の登場
さて、ここから弁舌家たちの活躍を見ていくのですが、一つ、縛りを。
前章でも申し上げましたが、連縦策、連衡策のぶつかり合いがこれから始まります。それぞれが「従」、「從」、「縦」、また「衡」、「横」と、様々な表現がされています。
そこで今後、なるべく「連縦策」、「連衡策」の二つの表現に分け、なるべく表現をわかりやすくしたいと思います。以下、それを承知の上でお読みいただければと思います。
秦は『犀首』に魏を伐たせました。犀首は大いに魏の軍隊の四万を超える兵士を敗り、将である龍賈を禽にしました。雕陰という都市を取り、かつ兵を東に進めようとしました。
なお犀首というのは魏の官名でもあり、当時は公孫衍という人物がこの官になっていたとされます。
ただ『史記』の秦の本紀(秦の歴史を記載した個所)の恵文君の五年には
「陰晉の人、犀首を大良造とする」
とあります。
ここでは『史記』の注や胡注が説明しているように、「魏の官である犀首(公孫衍)」が魏を攻めたとみず、犀首を官名ではなく人名とします。「秦の大良造(武官職)の犀首」が魏を攻めた、とみることにします。
ともかく、秦が魏を攻め、大いに魏を破りました。蘇秦は秦の兵が趙にまで至り、連縦策が敗れるのを恐れました。また秦に自分の使役することができる駒がいないことを考えました。
そこで選ばれたのが張儀という人です。
蘇秦は張儀という論客を激怒させ、これに秦に入らせました。
ここにこの時代で大事な役割を果たす、張儀という人物が出てくることになります。
張儀が秦に行ったのには『史記』に様々な逸話が残っているのですが、『通鑑』はそのほとんどをとっていません。蘇秦が選んだから張儀が秦へ行ったのか、張儀が秦へ行こうとしたから蘇秦は彼を利用したのか。ともかく、以下のような話をのみ『通鑑』はとっています。
張儀は、魏の人です。蘇秦と俱に鬼谷先生という人物に事え、縱橫の術、連縦策、連衡策を説く術を学びました。鬼谷先生とは鬼谷という土地に住みついていた人で、土地に由来して名前がついたといいます。
多くの国が並び立った戦国時代の縱橫家(連縦策・連衡策などを説く弁論家)だったとされます。
蘇秦は共に学んでいるうちに自分の才能は張儀に及ばないと思いました。ところが、張儀は諸侯を遊説したのに寵遇されるところはなく、楚の国などでは辱めを受けて困しみました。
蘇秦はその困しんでいることを知ってどうしたでしょう?なんと困苦していることを理由に甘い言葉で張儀を呼び出して、そして辱しめをまた与えました。
張儀は怒りました。
張儀は蘇秦を恐れ、そして怒り、諸侯ではひとり秦だけがよく蘇秦の拠る趙を、趙の連縦策を、苦しめることができることを知っていたために、ついに秦に入りました。
蘇秦はどうしたでしょう?追っ手を差し向けたでしょうか?
蘇秦は陰かにその舍人(身の回りのことをする家臣)を遣わして金幣を融通して張儀の資にさせました。
この辺は術策といいましょうか、人間的魅力というか、不思議な機微というものを感じます。一方で辱めを与えながら、一方陰では支援したわけです。連縦策を主張しながら、連衡策を一方では組み立て、支援する。この二人の関係の不思議さが感じられないでしょうか。
張儀は蘇秦の助けとは知らず、資金を武器に秦王に見えることができました。秦王は張儀という有力な家臣を得たことを喜び、張儀を客卿にしました。
ここにこの名もない蘇秦の舍人はそれを見届けた時点で、張儀のもとを辞去し、申しました。
「蘇君(蘇秦)は秦が趙を伐ち、連縦策を敗ることを憂えられました。君(張儀)でなければ秦の柄(政治の権柄)を得ることはできないとわかっておられたのです。
そして、そのために君を激怒させたのです。そのうえで臣をつかわして陰かに君に資を奉給させられたのです。
ここまでのことは、すべて蘇君の計謀でございました。」
張儀は申しました。
「嗟乎、このようなことを吾は悟れなかった。術中にあっても、術をかけられたことを悟れなかったのだ。吾が蘇君に及ばないことは明らかだ。
吾のために蘇君に感謝をしてくれ。蘇君がおられるあいだ、張儀は何をあえて言おうか!」
ここにおいて秦も、実質、蘇秦の手中に落ちたのです。『通鑑』は蘇秦が燕、趙を説いたのちに張儀が秦へ行った事績を載せ、それを暗示しているのかもしれません。
ともかく張儀を秦に押し込んだ蘇秦は、韓の宣惠王に説いて申しました。
「韓の地は四方、九百余里、帯甲(兵士)数十万、天下の強弓、勁弩(強い弩)、利剣(鋭い剣)は、みな韓より出でます。
韓の卒は足を超えて射ち、百発しても連射が止まることがありません。韓の兵卒は勇敢で、堅い甲を被り、勁弩を踏み、利剣を帯びれば、一人で百人に当たることは、言うまでもないのです。
そうであるのに大王が秦に事えれば、秦は必ず宜陽、成皋の都市を求めてくるでしょう。今、ここにそれを秦に效せば(献上すれば)、明年にはまたさらに地を割くことを秦はもとめるでしょう。韓の地をとめどなく与えていけば、韓の地で秦にさし出すものはなくなります。
次の土地を与えなければ前の功積(土地などの献上)は棄てられ、さらに後の禍(秦の攻撃)を受けるでしょう。
かつ、大王の韓の土地には限度があるのに秦の求めはやむことがなく、限度のある土地をゆっくり与えてもやむことのない土地の求めをうければ、これはいわゆる怨をかい、禍を結ぶもとというものでございます。戦わないうちに地はすでに削られていくのです。
鄙諺(ことわざ)に申します。
『むしろ雞口(鶏、小さなものの群れの主)となるとも、牛後(牛、大きなものの従)となるなかれ。』と。
このように大王の賢があり、強い韓の兵を擁しておりますのに、牛後の名があるとは、臣は竊かに大王のためにこのことを羞じ申します!」
蘇秦のこの言葉を聞き、韓王はその説に従いました。
連縦策がまた結ばれたのです。




