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秦の誓い  作者: rona
第2章 恵文王の時代
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「利」とは何だろう

 このころ、すうの人、孟軻もうか(いわゆる孟子もうし)が惠王けいおうまみえました。王はおっしゃいました。


そう(ご老人)よ、千里せんりすら遠いとせずに来てくださった、いったいわが国をしてくださることがありますでしょうか?」


 孟子は言いました。


「君よ、どうしてかならず利するというような内容のことを申しましょう、仁義じんぎがあるのみでございます!


 君よ、あなたが、「どのようにわが国を利してくださいますか?」大夫たいふが、「どのようにわが家を利してくださいますか?」士庶人ししょじんが、「どのようにわが身を利してくださいますか?」そのようにそれぞれ問えば、上下はかわるがわる利を求め、国はあやういのです。


 じんがあってその親しい者をおろそかにする者はおらず、を重んじてその君を後にする者はないのです。」


 王はおっしゃいました。


し。(そのとおりです)」


 ここでは国を利することと、それを身近に近づけて考えている孟子の考えが述べられています。


 一方で、はじめ(かつて、それ以前に)、孟子の子思ししが、こころみに牧民ぼくみん(民を治める)の道は何を先にするかを孟子に問うたことがあります。


 子思はおっしゃいました


「先に民を利しなさい。」


 孟子は答えました。


「君子が民を教える手段は、仁義だけなのです。どうして利しましょう!」


 子思はおっしゃいました。


「仁義はもとより(もともと)民を利する手段である。上のものが仁でなければ下のものもその所(本分ほんぶん)を得ない。上が義でなければ下もいつわりをすることをのぞむ。これは仁義でなければ大きなものを利せないということだ。


 だから周易にいっておる『利者、義之和也。』(利は、義のなり、と。易・乾卦・文言伝、つまり利とは義にかなったものである、ということか)


 またいっておる、『利用安身、以崇德也。』(利もって身を安んじ、以て徳をたかめる、と。易・繋辞伝、利で身を安んじ、徳を崇める)これはみな、利の大なるものを語ったものなのだ。」と。


 ここでは、孟子とりょう(魏)の恵王、孟子と子思(孔子の孫)の話がつながって書いてあります。


 ここでは「利」というものが説かれているようですが、微妙で私には説ききれていないかもしれません。


 こちらは国ではなく、民を利すことが重要である、ということが書かれているようです。国と民との違いを味わっていただければと思います。


 司馬光しばこうはこの二つのやり取りについて、見識を披露ひろうしているので紹介しておきます。


「臣の光が申し上げます。


 子思、孟子の言は、一つなのでございます。そもそもただ仁者だけが仁義が利となることを知っており、仁ではない者はそれを知らないのでございます。だから孟子は梁王にこたえたのに、ただ仁義だけで利の話におよばなかったのは、(子思のように)ともに語るにたる人と違ったからなのでございます。(だから論じなかったのです)」


 仁義によって、民に利がある、得られるものがある、しかし民ではない国というものを持ち出してはいけない、そういうことなのかもしれません。


 さて、しゅう顯王けんおうの三十四年(B.C.三三五)


 しんかんを伐ち、宜陽ぎようを抜きました。


 続く三十五年(B.C.三三四)


 せい王、魏王が徐州じょしゅうに会してそれぞれお互いを王としました。


 韓の昭侯しょうこうは高い門を作りました。屈宜臼くつぎきゅうが申しました。


「わが君(昭侯)はきっとこの門を出られないだろう。どうしてか?時ではないからだ。


 私のいわゆる時とは、時間や日にちのことではない。それ人には固より『(状況がいい)』というものがある、時が利してないのだ。


 往者さきには、君はいつも利を得られ(状況を判断して)、高門を作られなかった。


 前年、秦が宜陽を抜き(当然、韓は迎撃のため戦った後である)、今年はひでりした。


 君はこの時をはかり民をあわれむことを急にせず、かえってこころみるに高門などをつくり、ますますおごられている。


 これはつまり時に国が衰耗すいもうしているのにその弱き民を強いて立たせるようなものなのだ。だから、時でない、というのだ。」


 屈宜臼の民を想い、君を嘆く言葉です。


 さて、越王の無強むきょうが齊を伐ちました。齊王は人をつかって無強に説かせました、齊を伐つことは楚をつ利益にかなわない、と。そこで越王は楚を伐ちましたが、楚の国人は大いに越をやぶりました。楚は勝ちに乗じてことごとく吳の故地こちをとりました。東は浙江せっこうに至るまででした。越はこの敗北で散りぢりになり、諸公族が争い立ち、あるものは王となり、あるものは君となり、海上にまで及び(国を作り)、楚に朝服ちょうふくしました。


 三十六年(B.C.三三三)


 楚王が齊を伐ち、徐州を囲みました。


 韓の高門が完成しました。昭侯がこうじ(その逝去は屈宜臼の言のとおりでした)、子の宣惠王せんけいおうが立ちました。


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