宋の太丘の社、亡びる
さてこの時代の秦は、まだ圧倒的なまでの力をそなえていません。しかし、できる限り秦の流れに沿って、この物語を紡ぎます。
物語を周の顯王の三十二年(B.C.三三七)から始めましょう。
この年、韓の申不害がなくなりました。
三十三年(B.C.三三六)、宋の太丘の社が亡びました。注に引く『漢書』の地理志には、沛郡に太丘県があったとされるようです。注では宋の太丘の社が亡び,周の鼎が泗水中に淪沒した、とされます。
胡三省は、宋の太丘の社が亡くなる、というのは、丘を使って社をつくっていたものが、この時に亡去してしまったのだろう、といっています。(ちょっとこの辺はわかりにくいですね)
社というのは、『社稷』とくくって言われるのですが、国を代表する祀りごとの施設です。その国を代表する社が亡くなってしまったわけです。
宋の国の社が亡くなった。この当時の七雄国の社でもないのに、なぜこれが重要なのでしょう?そして周の鼎は、なぜ淪没したのでしょうか?
それは宋という国が殷という国の子孫の国だったためです。殷は湯王にはじまり、紂王に至って周の武王に攻め滅ぼされ、その主権を失ったのですが、その一族のうち、封じられて殷の先祖の祀りを継いだ国がありました。それが宋です。
ちなみにその前の夏という国の子孫は杞、その前の舜の子孫は虞という国に封じられ、その祭祀を伝えています。堯については子孫が唐に封じられたとされますが、『詩経』国風・唐風(唐のうた)の唐と同じかは、調べられていません。
堯から舜へ、舜から夏の禹へ、夏から殷へ、殷から周へ、禅譲や放伐によりこれらの国々は主権を伝えていっており、この時代、周の国は殷から主権を受け継いで存在していました。先の国から伝えられた、殷から主権を受け継いだ以上、宋の祭器は、周の宝器でもあったのかもしれません。
その社が何らかの形で亡くなり、鼎が泗水中に沈んでしまった。これは暗示的な出来事であり、周の国力が衰えていく象徴としてここではあげられたのでしょうか。
横道にそれました。あやふやな話は置き、歴史の流れを追いましょう。




