秦をめぐる歴史観(下)
司馬遷が偉大だったのは、その否定的な秦をも、ある程度は評価しながら書いていることです。さらには、前漢の創立者である劉邦のライバルであった、つまり最大の悪者である項羽については、正統な国の系譜(本紀)に加えてすらいる。これはいかに司馬遷が透徹した客観的な思考回路を持っていたかの証拠で、『史記』が中国史上でも、最も優れた歴史書の一つとして挙がってくる原因だと思います。
ではそんな悪者・秦の、衛鞅について列伝(伝記)を立て、なぜこまごまとその歴史を書いたのか?
それは秦という国が、過去最も強かった国だったからです。戦国時代を通じて、最も強く、最後に勝ち残ったのは秦だったからです。
歴史を調べたり、書いたりする時には、元となる事件や、事実がなければなりませんね?生の事件を見たり、聞いた人が記録したものを、『史料』と呼びます。その書かれた時期や、史料の信憑性、また伝聞の時間差によって、一次史料、二次史料のように分けていき、史料の信頼度、描写の仕方、などによって、歴史家は書き方を変えていきます。
このいわゆる、何を、どのように書くか、ということが、『史料の選択』ともいわれることが、歴史家の色を出します。歴史家の視点によって、歴史は書かれるのです。
だから、その歴史家の特徴を把握してからその文を読むことが、次の世代の歴史家には、時に必要になるのです。そしてそうやって歴史は、上書きされ、書き換えられてきたのです。
卑近な例でいえば、足利尊氏や、徳川家康のような評価が、徳川幕府時代、明治維新から戦前まで、そして戦後、とさまざまに位置づけが変わったことで、歴史家、歴史観、『筆者』というものの、複雑さを感じていただけるのではないかと思います。
話が逸れましたね、本筋に戻ります。
ともかく司馬遷が衛鞅を書かなければならなかったのは、彼の公平な目によるところも大きかったのですが、悪者が必要だったということであり、また秦が重要な国だったからです。
重要な国、秦は戦国時代をリードする国でした。だから最も史料というものが書かれ、歴史家たちは史料を集めて、競ってその時代の思想や、歴史書を書いたのです。
秦が有力な国だったから、歴史は残った。しかし、その判断は漢代に書かれた歴史により、上書きされ、塗り替えられたのです。
だからその上書きの向こうに行ってみると、衛鞅も普通の人間であったかもしれないし、評価も違ったかもしれません。
僕ですか?
僕は素人なので、そのままを描きたいと思っていますが、それでもいろいろな眼鏡を使って、当時の歴史を再現しているのは事実です。事実が半分、半分は小説・創作であります。
人間はだれでも輝くこともありますし、だれでも間違ったことをしでかすことがある、光があるだけ影を背負っている、そのようなことを誰かが言っていましたが、どんな誰でもいい面はあるし、悪い面もある、そのような姿勢が、僕の姿勢かもしれません。
だから悪者、正義の味方を問わず、とりあえず、書いてみよう、今はわからないけれど、自分の知っていることを、手持ちの範囲内だけでも検討し、還元してみよう、それだけ考えています。
これだけ長い前振りを置いたのは、この先描いていく張儀、という人物が、秦の国家が、極悪人に見えてきたからです。逆の立場、漢の立場から、戦国六国の立場から書けば、この物語は、もっと輝けるものになったかもしれない、ふと、そう思ったからです。
しかしです、もう遅い、選んでしまい、書き始めてしまった以上、また史料の最も厚いところである以上、ここを避けて通るわけにはいかないようです。
ここから張儀の物語をはじめます。どのような物語になるかはまだわかりません。英雄なのか、悪人なのか、私というささやかな『筆者』の味を、探してもらえれば幸いです。




