商君の絶頂と五羖大夫・百里奚の賢
周の顯王の三十年(B.C.339)衛鞅は絶頂を迎えることになりました。
秦は河西の地を攻め取った衛鞅に、商於の地と十五の邑を分け与え、『商君』という称号を号することを許します。ここに衛鞅は商鞅となったのです。
この商君のもとに、ふらりとやってきた人物がいました。趙良という人物です。
商君が秦の相となって十年がたっていました。改革は浸透し、実行されています。
しかしその法律の適用は過酷で、商君が渭水地方を巡察した時には、川が血で赤く染まった、という伝説が残っています。
商君は多くの人から恨まれていました。
商君はそのような評判を気にしていました。そこで趙良に聞きました。
「あなたが私が秦を治めるのを見たとき、五羖大夫・百里奚とどちらが賢であると思われますか」
百里奚というのは、秦の春秋時代の名相として知られた人物で。五匹の羊の皮(羖)で穆公がその身柄を受け取ったことから、五羖大夫とも呼ばれます。
自身をそのような偉大な先人と比べるというのは、かなり驕った態度といえるかもしれませんが、商君は気が付かないようでした。
商君は、絶頂を極めていました。
趙良はしばし考え込んでいるようでしたが、答えました。
「千人の耳に快い言葉も、一人の正直な人間の言葉にはかないません。私めが全て正直に語っても誅殺されないのなら、お話してもよろしいでしょう」
『誅殺』という言葉が出てきた時点で、趙良はかなりの決心をしていることが想像されます。商君は、趙良の言うことを聞くことにしました。直言を許したのです。
趙良は語り始めました。
「五羖大夫は荊(楚)の賤しい人物で、牛を扱う牧人から穆公は彼を抜擢しました。そしてそのような低い地位から国家の最高の位に置いたのに、民は彼を慕いあがめたのです。秦の相となって五、六年で東に鄭を伐ち、三回 晉の君を推戴し、一度楚の危機を救いました。その相としての働きぶりは、いくら疲れていても車に座らず、暑くても蓋をささない倹約ぶりでした。国中を見回るのにおつきのものはおらず、干戈のような武器は用いませんでした。五羖大夫が亡くなられると、秦の国中の男女が涙を流し、子供たちも歌わず、臼を搗くものは、杵を持てないありさまでした」
ここで趙良は商君の様子を伺いました。
商君は他人が褒められるのを黙って聞いていました。あまり愉快そうではありません。しかし、趙良は一度言った以上、覚悟を決めました。