韓の昭侯
これまで、魏と斉、そしてなによりも秦を中心に歴史を見てきました。魏が優れた家臣を輩出し、秦に衛鞅がいたように、この時代は各国が力を蓄え始めた時代でした。
のちに六国と呼ばれた国々が、内政などを整えて勃興し始めるのと同時に、逆に古くからの国々は衰えを見せ始めることになりました。
各国の盟主だった東周は韓に領土を削り取られましたし、優れた文化を誇り、『詩経』大雅、抑などで有名な武公などの英主を輩出した衛の国も、国力が落ちたために、この時代(周・顯王の二十三年(B.C.346))、公から位を一つ下げて、侯を名乗るようになりました。
何故でしょうか?
人が、いたからです。また、人がいなかったからです。
衛鞅や孫臏が象徴的でしょう。彼らは、儒教の価値観からいえば必ずしも正統の名臣とは言えないかもしれません。(特に衛鞅(商鞅)は、法制については民との信頼を損なった、と『資治通鑑』では司馬光の激しい批判にさらされています)しかし 、国を豊かにししました。
そのような当時の名士の一人として挙げられるのが、韓の申不害です。
申不害とはもと、鄭の国の賤しい身分の家臣でした。それを韓の昭侯が抜擢し、相としました。申不害は黄、老(黄帝・老子)、刑名の学を駆使して、韓の国を豊かにし、強くしていきます。
申不害が国の相となったのは、周・顯王の十八年(B.C.351)から、同じ顯王の三十二年(B.c.337)に亡くなるまでです。その間、韓の国は、国は治まり、兵は強くなったと伝えられています。
『通鑑』には次のような逸話が述べられています。
申不害は昔、その従兄が仕えることを求めました。昭侯は許しませんでした。申不害には怨めしい様子がうかがえました。
昭侯は言いました。
「先生から学を修めたものは、国を治めようとします。今、先生の求めておられる親族への拝謁を許して、先生の学問を廃しましょうか?先生の学問を行って、先生の親族への拝謁の望みを廃しましょうか?どちらでしょう?先生は昔、寡人に功や勞を修める(に酬いる)ことをお教えになられました。状況を視るに、今、求められておるところは個人的な面があるようです。私はどうしてそれを許すことができましょうや?」
申不害は舍(官舎)を闢けて罪を請うたと言います。
また、昭侯の袴(はかま・ズボン)が破れることがありました。破れたズボンです。しかし昭侯は捨てることなく、それをしまわせました。
侍従している者が言いました。
「君はなんと不仁なる者(仁ではないもの・憐れみを持たないもの)ですか!左右のものに賜わないで、しまってしまうなんて!」
侯に対して、侍従が直言したわけです。思い切ったことを言える雰囲気があったことがわかります。
昭侯は言いました。
「私は、明主は一嚬(くしゃみ)一笑すら愛しむと聞いています。君主の行動の与える影響は大きいからです。袴は高価なものです、だからこそ慎重に扱っているのです。私は必ず功があって、これを受け取るものが現れるのを待っているのです」
当時の衣類は、現在のわれわれが思っているように安価なものではなく、とても高価なものでした。しかも侯の衣類です。
『礼記』檀弓だったとおもいますが、孔子が自分の飼っていた犬、生き物の葬礼に、自らの衣類の切れ端を使ってやったことが残っていたように記憶しています。ともかく当時の布や衣類には、想像もできないほどの手数がかかっており、その民の苦労を昭侯は知っていた、気づいていた、ということです。
倹約かつ、士を尊ぶ姿勢を、昭侯が持っていたことがわかります。
このような姿勢が、韓を豊かにしたのです。
申不害は有能でした。しかし君主が有能だったからこそ、彼も力を発揮できたのです。
知能ある名臣を手に入れた国、名君のいる国はどんどん豊かになっていきます。
次に、衛鞅の秦における二回目の改革を見てみましょう。




