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秦の誓い  作者: rona
第1章 孝公の時代
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衛鞅、断を下す

 衛鞅えいおうが、木を徙す令をだして1年がたったころです。


 秦の民には、衛鞅の出した令・新法は不便である、そういう認識が広がっていました。


 秦の国都へ行って、官吏にその不便を論じるものの数だけでも、千を数えていた、と、『史記』は語っています。千というのはレトリック(文飾ぶんしょく)だとは思いますが、その数はとても多かったと思われます。


 彼らは、衛鞅の改革の撤廃を、新法の停止を求めます。


 このとき、のちの皇太子が衛鞅の法に触れます。禁制を破ったのです。


 衛鞅はどう思っていたのでしょうか?


 頼れるのは孝公の力であったと思います。しかしその息子が、おそらく寵愛ちょうあいされていたであろう公子が罪を犯してしまった。


 法を守ることは最優先です。法が機能しなくなることは、自分の改革が頓挫とんざすることを意味します。


 王は公子を愛している。しかし、公子は罪されなければならない。


 これが一つの転機てんきになりました。


 衛鞅は皇太子を処断しょだんしました。


 しかし、皇太子本人を罪することはできません。その(お守役)である公子虔こうしけん、その(教師)である公孫賈こうそんかを罰することにしました。それも肉刑にくけい(身体を毀損きそんする刑)のような、厳しい処断を行ったと伝えられています。


 衛鞅は、他国の民でありながら、皇太子は処断できなかったものの、その取り巻きのような身分の人まで重い刑罰を与えたことになります。


 次の日から訴えは止み、皆が(れい)に服するようになりました。


 秦の民衆は大いに喜び、治安は安定するようになり、盗賊はいなくなり、人々は安心して暮らせるようになったといいます。


 民は勇敢に戦うようになり、一方で私闘を控えるようになりました。


 これまで訴えを行っていた人々はどうしたでしょうか?


 今度は、衛鞅の改革をめたたえるようになりました。


 彼らは衛鞅のことを称賛しました。


 しかしいつの世も、節操せっそうのない人間は、その報いを受けるようです。


 衛鞅は容赦しませんでした。


「これは皆、教化きょうか)を乱す民だ」


 全てこのように、自分の令を褒めてくれた民を辺境の都市にうつしてしまいました。


 それ以降、秦の国で法令を議論しようという民は、限りなく減ったといわれています。


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