天才戦術家・孫臏
田忌と孫臏は気心の知れた仲でした。孫臏を威王に紹介したのは、田忌だったと伝えられています。
田忌と孫臏の出会いについては次のような話が伝えられています。
斉の国に赴いた孫臏は、斉の将軍、田忌と仲良くなり『客』として扱われるようになります。(ここでいう『客』とは『賓客』と呼ばれるものの地位の名称ではないかと思います)
田忌は騎射が好きで、しばしば斉の諸公子(王子)と馬を走らせて、射を競うことがありました。
『孟子』に、馬を操る名人の話、いわゆる『御』の技術の話が載っていますが、当時、馬に乗り、獲物を射る狩りについては、ルールが存在し、スポーツのようになっていました。
射については『六芸』と呼ばれる六つの技術の中でも尊ばれる技術でしたが、馬を操る御についても技術や方法、決まりなどがありました。それは自分に向かってくる獲物は射ていいであるとか、獲物の左右どちらのサイドから射貫くかというようなルールでした。
これらは軍事と深くかかわっていたためにルールが決められていたのですが、その詳細を正確に再現する、ということは、残念ながら私の力の及ばないところです。
ともかく、田忌は騎射のスポーツを、斉の王子たちとよく楽しんだわけです。斉の王子と対等に勝負ができるという、田忌の重んじられ方も注目されます。
しかし田忌は騎射を好んだものの、勝負はいつも競ったものでありました。
ある時、この騎射の闘いを、孫臏が見ました。そして田忌にこう言い放ったのです。
「あなたは騎射を好まれるだけですが、私はあなたが勝負に勝つ方法を知っています」
つまり、あなたを常勝にしてみせる、確率的に確実に勝てるようにしてみせる、と言い放ったわけです。
相手は王子の馬たち、それは優秀な馬がそろっていたでしょう。スポーツとは、常に勝ち負けはやってみなければわからないわけです。
それを、常に勝つことができるようにする、そう言い放ったわけです。
田忌が興味を持ったのも無理はないでしょう。
そして田忌の興味を引く方法といい、心のひだに分け入り、自分の策を進言させるまでの、孫臏の見事な差配ぶりに、唸らされます。
結局、田忌は孫臏の策に従い、馬を走らせてみることにします。
孫臏は言います。
「今、騎射に使います馬を見てみますに、それほど実力差があるというわけではございませんが、お互いの馬にそれぞれ上・中・下の三品の違いがあるように見受けられます」
孫臏は観察によって、馬の善し悪しや、そのスピードなどを判別してしまっていたということになります。恐ろしい観察眼といっていいでしょう。
そしてその観察に基づいて、次のように述べます。
「相手の上の馬に下の馬を当ててはいかがでしょう。そして相手の中の馬に上の馬を当て、下の馬に中の馬を当てるのです」
結果はわかりますね?
3つの勝負を終えて、田忌は2勝1敗で全体では勝利をおさめ、王から褒賞の千金を与えられました。
この勝負での結果を受け、田忌は孫臏を威王に紹介したといわれています。
『史記』の孫子列伝?の原文では、騎射の馬は『駟』というように表現されています。「馬」に「四」、これは衛鞅の爵制の改革の際に触れたように、四頭立ての戦車を指します。
当時の戦争は戦車と歩兵の連携によって成り立っていました。そのうちどの戦車が優れているか、実力を一瞬で見抜くほど、孫臏は観察眼に優れていたことになります。
そして下を上に当てて残り二つを取ったように、柔軟な発想力と実行力を兼ね備えていたのです。
天才的な戦術家、そう呼ばれ、実績を残した所以でしょう。




