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秦の誓い  作者: rona
第1章 孝公の時代
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当時の国々の位置について

 孫臏そんひんがこの威王いおうのような君主と出会えたのは、幸運でした。このような君主に出会えなかったなら、孫臏のような有能な人物でも、頭角を現すことはできなかったでしょうか。今となってはわからない話です。


 威王は孫臏に会い、兵法について質問しました。その能力を知ったのでしょう、己の師として抜擢します。


』については、『周易しゅうえき』・師卦にみられるように、先生という意味と同時に、戦争の軍隊、という意味が付きまといます。威王は戦争における参謀として、孫臏を任命したわけです。適任だったといえるでしょう。


 では、再び当時の状況に戻りたいのですが、位置関係がわからないと、理解が深まらないかもしれません。


 簡単にこの当時の各国の位置について触れるだけ触れておきます。


 地図で説明できない以上、極端な単純化をして説明します。


 こう考えてください。西方に秦という国があり、南方に楚という国があり、東方に斉という国があります。いずれも広大な領土と富強を誇った大国です。北方には燕という国があったのですが、北方にあること、土地が寒い土地であるため、やや国力は落ちたとおもわれます。


 この四つの国に囲まれて、中央の地域に、かつてしんと呼ばれる国が分かれてできた、三晉、いわゆる韓・魏・趙という国がありました。趙がやや西北、魏がやや西南、韓がやや東南方向にあります。


 七つの国の領土は、当時、国というものは都市国家の集合であるのではなかったかと考えられるので、入り組んで、あいまいであったのではないかと考えられます。


 この七国のほかに、特に斉と楚の国境、韓の東あたりにある淮水わいすい泗水しすい流域に、これまでもたびたび出てきましたが、小国が集まっていました。


 周りを囲む四国のうち、管仲かんちゅう晏子あんしなどの名宰相を出し、塩の販売による富強、禝下しょくかの学とよばれる優れた文化を誇った斉以外、秦・楚・燕は文化程度で劣っていた印象があります。


 秦は衛鞅えいおうの改革により、武断の国としてこののち強国となっていきますが、南方の楚については気候風土自体が北方と違い(南船北馬ともいわれます)、のち後漢の時代までは開発が遅れていたとされます。本格的な開発は三国時代か、西晉せいしんの国が東晉とうしんとして南方に避難したあたりから始まった、という説もあるようです。


 中国の南半分、揚子江流域は非常に肥沃な土地で、のちに時代が下ってからは、南方のみで中国全土の食料を生産するようなこともあった、と聞いたこともあります。


 ともかく、この当時は南半分はまだ未開の土地であった。秦、楚、燕などは後進の国で、文化的に遅れていたと考えてもいいかと思います。


 一方で中央の韓・魏・趙は当時の盟主、東周の洛陽の近くに国家を保っていたこともあり、どちらかというと進んだ文化を持っていたと考えられます。


 これらの中央の国々から周辺の国々へ文化が波及する形で中国の文化は発展したのかもしれません。魏で学んだ衛鞅が秦へ行って制度を変えたのも、同じく魏で学んだ孫臏が斉に戻ってから活躍するのも、その一つかもしれません。

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