魏の国の繁栄と呉起、そして転機
武侯の時代、魏は戦争を数多く興しました。武侯とは、軍事に力を入れた君主だったように見受けられます。
魏は周の安王が崩じ、烈王が即位したタイミングを狙って晉をついに亡ぼし、その土地を趙、韓と分けました。さらに各国から領土を掠め取って力をつけます。武侯の末年には、東は齊の博陵の近辺までの土地、楚の魯陽などの土地が魏の勢力範囲に入っていたようです。
武侯の時代に魏は力を伸ばし、数多くの名臣に護られて、繁栄を続けました。
その名臣たちの代表というか、最も有名なのが『呉子』という兵法書を著したといわれる呉起の登用でしょう。
このような逸話があります。
武侯は黄河の龍門という地点に船を浮かべ、その流れに船をまかせた中で、当時、魏の河西の地の守将(『史記』では「西河の守将」となっていたと記憶しています)となっていた呉起を振り返っていいました。
「素晴らしいなぁ、この山々や川の流れの天険は。これこそ魏の国の寶ぞ」
呉起は静かに控えておりましたが、微笑を含みながら、たしなめました。
「いいえ、違います」
「ほう、違うだと?どのように違うのじゃ」
武侯がたずねました。
「はい、魏の国の寶とは、徳にあって天険にあるのではないのです。むかし、三苗氏は左に洞庭の湖、右に彭蠡の澤(湿地)を抱え、堅い守りを誇りましたが、德義が修まらなかったために,舜帝に命じられた禹に滅ぼされました。」
「うむ」
「夏の桀王の王都・安邑は左は黄河、濟水、右は泰華山に護られ、伊闕(二つの山が向かい合い、間を川が流れて門のようになった個所)はその南にあり、羊腸の阪はその北にあり、左右南北と四つもの天険に護られていましたが、桀王は政治を修めず、仁でなかったため、殷の湯王は桀王を追放したのです」
「うむうむ」
「殷の紂王の国にしてもそうです、左は孟門(黄河が盛り上がって逆流したりしている個所)があり、右には太行山があり、常山はその北にあり、大河(黄河)はその南を経ていました。このような天険に恵まれたのに、しかし紂王は政を修めず、不德であったために、武王に率いられた軍に殺されてしまったのです」
武侯には、結論がもうわかっていました。しかし呉起の話すことを、笑って聞いていました。
「ですからここからわかるのは、ほんとに大切な守りは、徳にあって、天険にはないのでございます。魏国の寶とは、徳にございます。もし武侯様が徳をお修めにならなければ、ここにおる船じゅうの者でさえ、敵国の人間になりましょうぞ!」
「よろしい」
武侯はうなずきました。
「そのとおりだ、よく心しよう」
このように優れた家臣がおり、優れた文化があったから、魏は繁栄をつづけたのです。
しかし武侯は必ずしもこのように徳を修めつづけたわけではありません。
武侯の在位中に魏の大臣たちは勢力争いを繰り広げ、呉起も結局魏から逃げ出すことになります。
また武侯は太子(跡継ぎ)を立てませんでした。そのために、子の罃と公中緩が跡継ぎを争い、武侯の死後は国内が乱れました。一時は、その没後、趙と韓に攻められて魏の存続が危ぶまれたのですが、罃が公中緩を殺して立ち、勢力を盛り返します。これがのちの魏の恵王です
この魏の恵王の時代、まだ魏は安邑に都し、函谷関の西で、黄河より以西の土地も保って長城を築き、強盛を誇っていたのですが、徐々にその繁栄は秦によって浸食されることになります。
この時代、秦が衛鞅によって変法を実施し、強くなりました。
この魏の恵王こそ、秦に衛鞅を与え、衛鞅の才能を見抜けなかった王、公叔座を見舞い、衛鞅を殺さずに秦へ行かせたあの魏の王だったのです。




