秦誓
(参考に載せておきます。興味の無い方は飛ばしてください)
秦国の穆公は、軍隊に鄭国をうたせました。(BC.628頃?)
晉国の襄公は軍隊をひきいて鄭を救い、その秦の軍隊を崤山に敗りました。
敗北した秦の軍隊は、やがて晉に許されてかえってきました。
秦の穆公は敗北から立ち上がるため、『秦誓』(秦の誓い、と呼ばれる文)を作らせました。
穆公はおっしゃいました。
「ああ!わが戦士たちよ、きけ、さわがないでくれ!
わたしは君たちに言わなければならないことがあるが、そのはじめに誓い、君たちに告げよう。
いにしえの人に格言がある『民がことごとくしたがってくれるならば、国家の利益は多い』と。だからわたしの言うことを聞いてくれ
戦いに負けたのはお前たちの責任だ、そう人を責めることは簡単だが、わたしが負けの原因だった、そう自分が責任を受けとめて、水が流れるがように自分を変えていく、これはむずかしいことだ。
わたしの心が憂えるのは、日月はあっというまにすぎ、現在へはまたもどってこれないことだ。わたしは失敗した、だが過去へは戻れないのだ。
戦いの前、過去の教訓を教えてくれ、わたしをとどめてくれた人は、わたしの憎しみの対象にはなっていない。目先の今だけのことで戦争をそそのかした人を、しばし身近に置いたのがいけなかったのだ。
だがそうではあったからこそ、これからは国家の大計は、この黄色い髮の老人(過去の教訓を鑑みる人)に問おう。そうすれば間違いはないだろう
冷静沈着で慎重な戦士は、膂力に劣るとしても、わたしはこれを頼りに思おう。
血気盛んで戦い好きな無謀な戦士は、射御に優れていたとしても、わたしはこれを遠ざけようと思う。
口先が上手で人の意見をころころと動かし、君子をして言葉を変えさせる、わたしのもとにそんな家臣がたくさん、たくさんおり、戦いを起こしてしまったことは、ぼんやりとしていたわたしが明確な臣民の基準・理想を持っていなかったからだ。
もし目立たないものがいたとする。彼の心の志操はまじめで努力家なだけで他に技が無かったとしても、その心が善にいそしみ安らかであったならば、それがゆえに、そのためにこそその意見を容れ、臣民とするべきだったのだ。
ある人の技を、自分がこれを持てるように努力するか、認めて生かしてやり、彥聖な人の行いや言動をみて、その心や魂をこのみ、自分も真似ようとするような人がいる。このような臣民はこれをこそわが国の柱としよう。きっとわたしの子孫と民を守ってくれるだろう、そしてきっと利益をもたらしてくれるだろう。
ある人の技を、嫌い、憎んで、足を引っ張り、彥聖な人の行いや言動を見て、これに背いて、違おうとするような人がいる。このような人間を臣民とすることはできない。きっとわたしの子孫と民をまもることはできないだろう。このような臣民がいれば、きっとまた危機はやってくるに違いない。
国家の状態は、このように一人の人間に由るのだ、国家の繁栄はこのような一人の人間の努力によるのだ。」
だから皆よ、この誓いを覚えておいてくれ
そう、穆公は皆に語り、皆と国を変えていこう、そう誓われたのです。
『尚書』周書・秦誓に基づき創作