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秦の誓い  作者: rona
第1章 孝公の時代
19/73

商鞅の変法(改革・余談として)

 ここで、少しだけ余談を挟ませていただきます。


 衛鞅えいおうが秦の法を変えたことについては、おそらく、専門家の間に様々な議論があると思います。変法へんぽうの内容の詳細の表示に当たっては、おそらくは文字の解釈の違い、見ている史料の違いから、様々な論が展開されているであろうことは想像されました。

また私は『礼記らいき』、『春秋しゅんじゅう』などに習熟していないこと、単なる素人の学問であることなどから、多々、間違いや、誤りを犯しているものと感じています。


 私は今回は、漢文の『文字史料もじしりょう』(本、紙などの史料、木簡、石碑など広い範囲を含むのでしょうが十分には当たれていません)をなんとか読むことにより、『創作』を行うことにし、論文などの専門家の『研究』はあまり読まなかったので、これらの専門家の方々の議論を全く取り入れていないかもしれません。(恐れ多いことでしたが……)今後もこのようなスタイルを踏襲する可能性が高いと思います。


 また『文字史料』のうち考古資料などをあまり扱わなかった理由としては、まず自分には知識がなく扱えません。また木簡や出土物の中に含まれた文書などには、偽造が行われた可能性(中国ではよくあることです)があります。古くから流通している真に信用できる、もっとも基礎的な史料から叡智をしぼり取って、想像もしくは創造を行うことを今回は目指しました。


 衛鞅の変法は前後2回行われ、今回取り扱ったのは前後のうち前期に行われた改革です。


 後期の改革については、秦の咸陽かんようへの遷都とともにでてくるのでこの後また描くかもしれませんが、土地の制度を変え、また力役の制度を変更したことなどが推測されています。(『通典つてん』巻一七四、州郡四、風俗の文などにより推測)これらの改革により、未開の地だった秦の土地に、人口の密集地帯であった三晉(趙、魏、韓)あたりから、人が押し寄せ、開拓が進み、函谷関以西の秦の土地に、強力な国家が育っていくのですが、それはもう少し後のことです。


 ともかく、衛鞅の行った変法は大きな影響を後世に与えました。『通典つてん』(つてん?唐の時代に書かれた辞書のようなもの?)には、しゅう太公たいこう呂尚りょしょう)、春秋しゅんじゅう時代・せい管仲かんちゅう、戦国時代・魏の李悝りかい、戦国時代・秦の商鞅しょうおう、南北朝時代・後周こうしゅう蘇綽そしゃく、隋の高熲こうけいと、六人の賢者として、ならんで記載されている個所もあります。


 しかし儒家の立場からすれば、民を搾取する衛鞅の改革は非難されるべきもので、『資治通鑑しじつがん』では、司馬温公しばおんこうが民との信頼関係をぶち壊した、と非難しています。


 前段で述べた衛鞅と甘龍との対決も、このような認識からの違いから出たものだったのではないかと思われます。前段のやり取りは、『史記しき』などに実際に残されているもので、そこから創作したものです。


 衛鞅が法を変えたのに対し、秦では批判の声が渦巻くことになります。それに対し、衛鞅は過酷な手段に訴えることになるのですが、それについては、この後に触れていくことにします。そしてその衛鞅がとった手段が、彼の将来に大きな影響を与えることになったのです。


 では本筋に、戻りましょう。

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