予譲の忠節と胡三省の名分論
三家(趙・魏・韓)は智氏の田を分けました。趙襄子は智伯の頭に漆をぬり、そうして飲器(飲料を飲む器ともいい、便器にしたともいわれる)にしました。
智伯の臣の豫讓というものが、智伯のために仇に報いようとし、そのために詐って刑人となり、匕首をふところにし、襄子の宮中の塗廁(泥の便所)に入りこみました。襄子は廁にいって心がざわめき、そこを捜索させ、豫讓をとらえました。左右のものは豫讓を殺そうとしましたが、襄子は曰いました。
「智伯は死んであとつぎも無い、そうであるのに此の人は智伯のために仇に報いようとする、まことの義士である、わたしは謹んで彼を避けるだけだ。」
そうして豫讓を舍ておきました。
豫讓はまた身に漆をぬりたくって体をただらせ,炭を飲んで声が出ないようにしました。市で物乞いを行いましたが、その妻すら識別できませんでした。物乞いを行っていたところその友にであいました、その友は豫讓に気が付き、豫讓のために泣いて申しました。
「君の才能をもって、趙孟(趙の長子)に臣事すれば、必ず近幸をえるであろう、そうであるのにどうして困難なことをしようとする、よく考えたまえ、それは簡単なことではないではないか?どうして自らこのように苦しむのだ?そして仇に報いようとする、難しいことではないか!」
豫讓は申しました。
「既已に身を委質ねて臣となり、そうであるのにまたまた襄子を殺そうとする、これは二心だ。だいたい私がしようとすることは、極めて難しいのだ。そうであるのにこれをしようとするわけは、このことによって天下で後世に人臣として二心をいだく者があれば、愧じさせてやるためだ。」
襄子は外出し、豫讓は橋の下に伏せました。襄子は橋にいたりましたが、馬が驚き暴れました。ここを捜索すると、豫讓を得ました、そして遂に豫讓を殺したのです。
この部分の注で胡三省はいっています。
「智宣子が瑤をたて、豫讓が仇に報いようとするまで、その事はすべて周の威烈王の二十三年の前に在る。司馬温公は先に三晉の分立より過去にさかのぼる表現を使ってこの物語(『資治通鑑』)を發いている。
溫公の意は、おもうに天下にとって名分より大きいものはなく、三大夫に諸侯となるのを命じたことを観て、そうして周のますますおとろえた理由、七雄のますますさかんになった理由を知らしめようとしたのである。
それは宗社(家の中心となるもの?実際は先祖の祭りを行う社のことと考えられるが、その中心になるあとつぎ・代々継がれる道を指すと思う)より重要なものはなく、智伯、趙襄子の後嗣を立てる事を観れば、智宣子が名分(道ともいえるか)を失った理由、趙簡子が名分を得た理由を知ることができる、というものである。
君臣の義はまさに節を守り死に伏すだけである、豫讓の事を知れば、そこで名を策し委質ねるものに必ず霣(すいません、この文字意義をとれませんでした、また機会があれば補足します)あって貳をなからしめるはずだ。
そしてそれらが後世の鑑となる、ほんとうに昭昭としてあきらかなものではないだろうか!」と。
趙襄子は伯魯がいたために趙の家の宗廟に立ちませんでした。子が五人いましたが、あえてあとつぎは置きませんでした。伯魯の子を代に封じ、代の成君と申しましたが、早くに卒くなられました。そこでその子の浣を立てて趙氏のあとつぎとしたのです。
襄子が卒すると、弟の桓子が浣を逐って自立しました。一年にして卒しました。趙氏の人は申しました。
「桓子が立つのは襄主の意でなかったんだ。」
そこでみなでその子を殺し、再び浣を迎えて立てました。この方を獻子と申します。獻子は籍を生みました、この方が烈侯であったのです。
そして、ここから三晉を中心とし、物語が始まることになります。




