深層の泉×悪しき来訪者
歩き出して間もなく、森に射す光が強まった。開けた場所がある証拠である。となれば、泉は近いだろう。
「ユウシャ、やけどは大丈夫なの?」
「! 俺の報告、聞いてくれていたんだな。でも、そう酷いもんじゃない。薬草……ほら、リザードフォークがくれたヤツ。あれすり潰して塗ったらよく効くんだけど、まあいいさ。こんなの泉の水をかければ一瞬だ。
君は大丈夫だったのか?」
いくぶん自由奔放に見えるルカが今になって先程負った怪我を心配するもので、ユウシャも喜びより驚きが勝ってしまったようだ。落ち着いて彼も問い返せば、ルカは両手をひらひらと動かして、平気だと端的に知らせてみせる。手短に済ませねばならない理由は彼も理解しており、表情を引き締め一層気を張った。
道の先、何かを隠したいように蔦が広がっているのが見え、二人は足を止める。精霊を守るに相応しい緑のヴェールをはらりと手で捲ると、そこには豊かさを象徴するような花畑、そして大きな泉が鎮座していた。
光の柱がいくつも差し込んだ美しい楽園は、小鳥がさえずり小動物たちが駆け回っていたって良いはずだ。ところがそこでは動物たちの気配どころか、小鳥の声、羽ばたきすら聞こえてこない。
「誰だ」
木漏れ日に時折銀に光る利休茶色の尖った耳、ふっくらとした大きな尾。一言すら重圧を感じるその少年こそが此度の元凶であると、二人にははっきりと理解できた。
「ライカン、スロープ……」
「知ってるなら早ェよな。お前ら、殺されに来たんだろ?」
グリンディロー達の言葉通り、彼に手加減や逃がすといった慈悲の心は無い。
しかし見た者が物怖じしそうな禍々しいオーラに反して、彼の身体はやや小柄で、鮮やかな緑の瞳は大きく、可愛らしくもある。良くも悪くも、童顔と言われるものだった。
「止めろ。この泉を血で濁らせてはならない」
ライカンスロープの放つ殺気が増したところで、淀んだ空気を一瞬で晴らすような、透き通った声が響き、少年を制止する。二人が声の主を辿ると、泉の上にはホリゾンブルーの長い髪を揺らした、美しい青年の姿があった。
「なら早くウンディーネを出せよ。ここに来た時からずっと言ってるだろ」
「……な、なんで君はウンディーネを狙うんだ? この泉を消したいのか? 精霊を殺して、力を得ようと……?」
「鬱陶しい、おしゃべりなんか嫌いだぜ。ウンディーネは俺の嫁になるんだ」
グリンディローの言っていた、泉を守る精霊の姉弟。泉の水面に立つ耳の先が尖った青年は、その弟にあたるのだろう。ライカンスロープの動きを警戒しながら、怯える様子は一瞬たりとも見せず、粛々とした態度を保っている。
ライカンスロープもそれを分かってか、恐る恐る花畑に足を踏み入れたユウシャを睥睨するものの、大人しく質問には答えてみせた。但しその低い姿勢、わずかに揺れる身体は、見るからに戦闘態勢と感じ取れる。
「ルカ、後ろに」
Dランク―と評価したが他者に否定されていた為格上かもしれない―のリザードフォークを一人任され、怯えていたばかりの青年が、剣を構えルカに下がるよう片手で指示を出す。少年の容姿から油断しているのだろうか、そう考えつつも大人しく後方へ回ったルカの目が、震える足を捉えた。
真っ向勝負で勝てっこない。それでも、ルカの呪術が浮かぶまでの足止めなら出来るかもしれない。彼はそんな風に考えていたのかもしれない。芝生を蹴り上げ突進してきたライカンスロープを前にして、グッと鈍い音が響くほどグリップを強く握った。
「っつぅ……っぁ、あ゙……!」
「ユウシャッ! 離せっ」
構えた剣を押さえつけユウシャに飛び掛かったライカンスロープの牙が、彼の肩に刺さる。そのまま噛み千切らんとする猛獣の覇気に、ルカは咄嗟に羽ペンを顕現させ、その先をライカンスロープの背中へと突き刺した。
しかし、物理武器として使ってしまえばそれはただの羽ペンだ。小鳥が突いた程度のダメージだが、肩口からゆっくりと牙が抜かれる。ぼんやり眺めている間もなく、即座に伸ばされた固い獣の毛を纏う腕は、ルカの首を捕らえた。見上げる瞳は恐ろしい程瞳孔を尖らせている。
「それ、使い方違うだろ」
「っ物は……使いよう、だから」
「ばかにしてんのか?」
「……いぃ、え。……っ気を、引くに……、じゅうぶ……」
ルカの返答ばかりを気にかけていた少年は、手負いの青年にはまるで注意を向けていない。ユウシャは死角から攻撃を仕掛けたが、不意打ちの刺突にそれ程ダメージは負わせられなかった。
「なんだよ、今度は木の枝か?
……っあ?おまえ、これ……」
「マンティコアの、神経毒……! ちょっとは、話せるようになった、かっ!」
しかし、使われた武器にモンスター性の毒が溜め込まれていた事までは、ライカンスロープも予想できなかったようである。ぐらついた少年の腕をルカが払い落とし、ユウシャが足で突き飛ばす。
「冒険者よ、早く泉へっ! ケルピー!」
精霊の声に、泉から馬の下半身を持った透明の青年達が現れる。二人が泉の淵まで必死で駆けると、守護するように前へと立ちはだかった。
「ケルピー……、あん時のはお前の差し金かよ……」
「……、ライカンスロープ、もう止めろ。ここを……去った方が良い」
「どうしてそれ程、姉を匿う……っ! 姉弟愛が過ぎるぞ!」
神経毒に身体を侵され、ふらつく身体でそれでも泉へとにじり寄る。その毒もいつまで効いているかは分からない。それまでに言葉で納得させられるならば、若しくはルカが呪文を思い浮かべば。或いはその前に楽園を血で濡らすことになろうと、仕様がない事だった。
「貴方こそ、どうしてウンディーネに執着するの? もっと美しいものも、もっと容易に手に入れられるものも、貴方にはあるはず」
「……っ約束、したんだ……会いに来るって! 俺が沢山、外の話を、聞かせてやるって…!
だから、アイツを出せ!!」
咆哮のような声が辺りに響いた。
ガサ、ガサリ。森が畏怖し揺れる音に、明らかに故意に木々を掻き分ける音が混じる。
「やっと森のモンスター達が落ち着いたと思ったら……何事ですの?」
「あ、姉上! 駄目だ来ては……!」
「まずいっ、ウンディーネ!?」
「ウンディーネ!」
現れたのは弟同様にホリゾンブルーの髪を揺らした、美しい女性だった。白と黒を基調とした、身体のラインを映し出す撥水性の良い水着のような衣装と、腰から下には金の装飾の施されたシアー生地を纏っている。ユウシャがまさかと声を上げなくとも、ライカンスロープにも一目で分かる容姿。彼女は事態の深刻さなど全く理解していないようだった。
「待ちわびたぞ、ウンディーネ! なんだ、泉に隠れてたんじゃなかったのか……。どこにいたんだよ?俺を覚えているか? 忘れるわけないよな、なあ……」
「んん……?私はちょっと、本の買い出しに……。それより貴方、ここで喧嘩はいけませんのよ」
「……成程」
ライカンスロープの畳み掛けるような問いかけを聞き、尚ものんびりとした口調の女性が漏らした言葉に、ルカが小さく声を上げる。
「ウンディーネは貴方だったのね、弟さん」
「「ええーっ!?」」
ルカが語った真相を信じられない男達の叫喚が響いた。