87 生き延びて
ファリティナの慟哭が収まってくると、セリオンはすぐさま動いた。
乱暴にギデオンを引き離し、ファリティナを抱きしめながら立ち上がらせた。
「こんな汚らわしい男の腕で、泣いてはいけない。ファリティナ。」
「セリオン、不敬だわ・・・。」
「いいんです。敬意に値しない。」
相変わらず敵意剥き出しのセリオンの毒舌に、ギデオンは苦笑した。
「いいんだ。ファリティナ。確かに今の私はまだ、敬意を受けるにはお粗末過ぎる。」
「・・・いいえ。そんなことはございません。申し訳ございません。弟が・・・。」
「ううん。嬉しかった。」
嬉しい?
ファリティナは不思議そうに首を傾げた。
あざといな。
セリオンが苦々しくファリティナを睨んだ。
ファリティナが無意識にする少し幼さが残る所作が、どれだけ庇護欲を掻き立てるか。
ああ、くそ。こんなことなら目の怪我を理由にして、公爵邸から一歩も出さなければ良かった。
王宮での譲位式も、皇国への見送りも説き伏せて出さなければ良かった。
彼女の目をこの両手で隠して、その耳も自分の声だけが届くように。
儚げで頼りなく見えて、ファリティナはいつも現実を見据えている。
目に見えないしなやかな翅を持って、鬼才と恐れられる自分の手からスルリと飛び立とうとする。
(嫌だ。)
離してやらない。遠くからなんて意味がない。せっかく取り戻したのに。
人の目など知ったことではない。
この才覚は、そんな雑魚の痴れ言を蹴散らす為にあると自負している。
だけど。泣いてしまうだろうか。
彼女の見えない翅を、彼女にも気付かれずもいでしまったら。
それとも、あの儚く諦めた微笑みで許してくれるだろうか。
セリオンの胸が、燻った灰のようにじくじくと痛んだ。
「嬉しかった。私の前で泣いてくれて。」
ギデオンがふわりと微笑んだ。
ファリティナが、は、と息を飲んだのが分かった。
この優しげな王子様の顔が好きだったのだ。本当に自分に寄り添ってくれると勘違いしてしまった、甘い優しい表情だった。
いけない。いけない。
ファリティナは自分を戒める。
また、同じ失敗を犯すところだったわ。初恋ってしつこいのね。
もう、失敗はできない。
勘違いを手酷く嗤われるのも嫌だし、昔と違って、自分を監禁しかねないセリオンもいる。
魔王の逆鱗に触れたら、ギデオンを社会的抹殺だけでなく、磔獄門の上市中曳き回しの刑を復活しかねない。
そんなことをすればグランキエースが悪魔の一族になってしまう。
やはりここは国外逃亡・・・。
「あなたを愛している。」
ギデオンがまっすぐファリティナを見て言った。
ぼ、とファリティナが火がついたように赤くなる。
「・・・殿下。」
セリオンのファリティナを抱く腕が強まった。
「恥知らずな。」
セリオンが毒づいた。
ギデオンは、軽く頷いてファリティナに向かった。
「分かってる。あなたが再び、私に手を伸ばしてくれるまで、私は近くで待っている。今は知っておいてほしかったんだ。私があなたを愛してることを。」
「立場で追い込むつもりか。あなたがそれを告げることで、どうなるかわからないのか。」
「手段を選ばない君に言われたくないな。セリオン。それに私は待つよ。ファリティナをこの手で幸せにしたい。」
真摯な目で見つめられて、ファリティナはおどおどと目線をずらした。
「甘言に騙されないでください。姉様。軽薄な言葉だ。」
「どうと言われようといいけどね。今から証明するだけだ。」
ギデオンは肩を竦めて、セリオンの毒舌を躱した。
そして、す、とファリティナに手を伸ばす。
避けようとするセリオンの腕をかいくぐり、愛しげにファリティナの頬に手を置いた。
「見ていて。ファリティナ。あなたに相応しい男になる。」
名残惜しそうにスルリと頬を撫で、一歩離れた。
「学院で待ってるよ。私の方が先に卒業してしまうかもしれないけど、あと一年、あなたとともに通えるなんて、きっと神がチャンスをくれてるんだ。」
そう言うとギデオンは軽い身のこなしで、坂を下って行った。
チッとセリオンの舌打ちが響いた。
「気障なやつ。」
そう言って腕を解くと、ファリティナは耳まで真っ赤になって目を潤ませていた。
ぐはっ!かわいいか!
本気で照れているファリティナの表情が、セリオンを撃ち抜いた。
「ファリティナ。」
セリオンは眉を顰めて、ファリティナと目を合わせた。
「いけません。そんな可愛い顔。あんな男にもったいない。」
「や、やめて。セリオン。今はとてもあなたまであしらえないわ。」
ファリティナは顔を両手で覆った。
脈あり。
セリオンは心の中でニヤリと笑った。
鉄壁の塩対応のファリティナだが、押せばこれほど可愛い反応が返ってくる。
ふふん、とセリオンはギデオンに向けて鼻で笑った。
公爵邸にファリティナを連れ戻してからも、ギデオンは何度も面会を求めてきた。
レミルトン邸でファリティナと話して泣き帰ったと聞いてきたので諦めたかと思ったが、逆に接近が酷くなった。
セリオンはしぶしぶ面会に応じた。
ファリティナはどうしてあんなに卑屈なのか。公爵家で大事にされてなかったのではないか。
ギデオンに問い詰められて、痛いところを突かれた。
沈黙で返したセリオンにギデオンは強い目で見返した。
「ファリティナを幸せにしたい。それができるのは私しかいないと思ってる。君たちの父親の公爵も、そう分かっていて私たちを娶せたんだと思う。君も分かってるんだろう。彼女は王女が不在の今、この国の未婚女性の中で最も高位だ。私でなければ、彼女と釣り合うのは外国しかない。」
「伴侶を持つことが必ず幸せとは限らない。」
「相手を想っていなければ、そうだろう。」
自分は違う、とギデオンは言い切った。
「幸せにできるなんて、よくそんな尊大なことが言えるものだ。自ら侮りを引き寄せたくせに。」
「わたしの甘さが彼女を傷つけた。それは一生の楔だ。でも、彼女は言ったんだ。反省して賢さを身につけて、次の一歩を踏み出すことこそ、過ちに対する贖罪だと。もう二度と、私や君たちが持つ矜持を貶めたりしない。特に彼女には、誰からも侮らせない。利用できるものは全て利用して、彼女を守りたい。」
ふうん、とセリオンは流し目をくれた。
「ずいぶんと趣向を変えてきたんですね。それは見ものだ。あなたにできますか?力を振るうことは、泣く相手を踏みつけることだってあるんですよ。」
アマンダのようなわかりやすい同情に流されるような気質では、王佐どころか貴族の端くれとしても危うい。
「私は凡人だ。君のような天才とは違う。だからこそ、他者の劣等感や失望が分かる。私は君のように、瞬時に判断できるようになるには時間がかかるかもしれない。だけどその分、君とは違うやり方がある。」
ギデオンは曇りのない目でセリオンを見た。
「ファリティナは公爵家で劣等感を植え付けられてきた。きっと罪を犯した公爵代理とその周囲のしたことだろう。そして、君は気づいてなかった。あんなに近くにいたのに。君は光で、彼女は影だった。君が光り輝く分、彼女は存在を軽んじられてきたんだ。」
セリオンは殺気立って、ギデオンを睨みつけた。
「…私がファリティナをこれからも苦しめると?」
「いや、違う。そんなことにはならないように、君は配慮するだろう。だけど、私なら君とは違う形で彼女に寄り添える。そうだろう?」
ふん、とセリオンは嗤った。
「ええ、真っ当な夫婦としてね。世間的には受け入れやすい形でしょうよ。それを盾にしてまた王家は、ファリティナに鎖をつけるんですか?今度はファリティナという人質で、私を見張るんですか?」
「違う!」
ギデオンが顔色を変えて怒った。
「どうしてそう、穿ってるんだ!権力を盾に彼女を欲しがってるんじゃない!幸せにしたいんだ!」
「あなたの立場だと、どう動いてもそうなるんですよ。そして姉はそういう政治的な機微に敏感だ。聡明ですから。近づかないでください。ファリティナの幸せは、彼女が決めます。」
そう決別して、それから一切の接触を断った。王宮で行われた譲位式のエスコートも、先日の王子の誕生会への招待も、のらりくらりと躱した。
それだというのにサイリウムまで押しかけるなんて。
簡単に渡してなるものか。
先日まで乳臭さ全開の善良が売りの王子にとってつけたような口説きが長続きするわけない。
せいぜい足掻くといい。優しい王子様が好みの姉様を手に入れるには、優しさの仮面の下で姉様の杞憂を焼き払う無慈悲さが必要だ。
ふふふ、とセリオンが笑った。
ファリティナが不思議そうに見上げた。
ああ、ここで初めていい仕事をしてくれたかもしれない、とセリオンはギデオンを思った。
「ここにいてください。姉様。」
セリオンは安心させるように目元を緩めた。
「あなたがいないと、グランキエースを守った意味がなくなる。」
「・・・グランキエースには、あなたがいるわ。」
「わたしではだめなんです。あなたがいないと。あの子たちが帰って来る場所がなくなってしまう。それに、ジェミニも、あなたがいないときっと寂しがる。」
そう言って、花畑にある小さな墓碑に目をやった。
ファリティナの目が揺らいだ。
「王子もああ言っているし、一緒に学院に戻りましょう。もう誰も、あなたを傷つけない。」
「私たちを、信じてください。姉様。」
私たち。
ファリティナは目を上げた。
「もう、あなたは孤独じゃない。私たち兄弟だけが、グランキエースを守ろうとしているんじゃない。信じましょう、姉様。あなたを守ろうとする人たちを。あなたが私たちを生かしたかったように、あなたの幸せを祈ってる人がここにはいるんです。」
信じてください。
セリオンがしっかりとファリティナを見つめた。
幸せを祈ってる。
ファリティナの胸に、その言葉の温かさが広がった。
生き延びてほしかった。生きて、その幸せの意味を感じてほしかった。
自分が願ったように、自分も誰かに、思われている。
思いを返したいと思った在りし日を思い出した。
ファリティナは小さく微笑んで、頷いた。セリオンの言葉を信じたい、素直にそう思えた。
セリオンは指先を繋いで、ファリティナを引いて、海に続く道を下っていった。
【目的は生き延びること】完
最後までお読み頂きありがとうございました。