86 春の海
一年ぶりの海に、ファリティナは目を細めた。
水面が春の日差しを受けて煌めいている。切なくなるくらいに美しい風景に、知らず胸を押さえた。
その肩を、セリオンがそっと押した。
目線を元来た道の先に送る。
海を見下ろす高所に小さな花畑があった。
助けられなかった小さな弟の墓標だった。モドリの海を見下ろす小高い山の上に、サイリウム卿が誂えてくれたグランキエース姉弟の幸せの残影。
振り向いて、また泪が伝った。
生き残ってしまった。
後悔と呵責がファリティナを苛む。
どうして自分が。
どうしてあの子が。
何度も何度も反芻して、それでも残っているのは、あの子を失くしてしまった現実だけ。
薄暗闇を手探りで歩くような寄る辺ない心は、ふとした拍子であの子の側にと誘う。その度に引き留めるのは、今この手を引く、強くて美しい弟だった。
それでも。
ファリティナはふわふわと漂う自分の心を持て余しながら思う。
いつかは離さなければいけない。
この手を離して、彼を自分から解放して、彼自身を愛してくれる人たちに返してあげなければいけない。
悪役なんてしなくていい。
みんなファリティナにそう言う。
ファリティナだって、そう思う。
だけど、生まれた時から悪役だったのだ。
このままセリオンの手を離さなければ、また悪役になってしまう。セリオンが心から愛し、慈しみたいと真っ当に思う相手に、歪な関係を飲み込ませる悪役。
そうなる前に。
ピーーー
風に混じって、出航の笛が鳴った。
ファリティナの目が再び海を捉えた。
足を止め、出航する船を眺めていると、セリオンが言った。
「コリンに婚約の話が来ています。」
ファリティナがセリオンを見た。
セリオンも春の海を眩しそうに見ていた。
「どこのお家かしら?」
「皇国の将軍家です。」
え?とファリティナが目を見開いた。
「返事は待っていただいています。こちらがこんな感じで、爵位を守ったとはいえ、私はまだ学生。コリンも騎士学校を終えるまでまだ時間がかかる。それに、卒業後はあちらの爵位の一つを継いでほしいとのことですから。」
「皇国の騎士になるのね。」
「どう思いますか?」
「コリンが思うように。」
「お相手のご令嬢がかなり乗り気のようで。騎士学校に兄弟が通われていてのご縁のようです。コリンもまんざらではないようでしたよ。」
「それならいいご縁だわ。お互いが思い合えるのなら、私は祝福するわ。」
そう言うと、セリオンは頷いた。
「では、こちらは異論がないとお伝えします。すぐには無理ですが、近いうちに婚約を整えて、あちらに正式にうかがいましょう。その時まで、待ってください。」
ファリティナは足を止めて、セリオンを見た。
セリオンは辛そうに目を眇めた。
「一人でなんて、行かせません。」
セリオンの声が震えていた。
譲位式を終え、皇国に留学させている弟妹たちを連れてサイリウムに来た。
ジェミニをみんなで弔い、2日後、コリンたちはモドリ港から皇国に戻る。
ファリティナは共に皇国に向かおうとしていた。
いつでも出奔の準備はできていることを、教えられていた。
ここにいてはいけない。
ファリティナは、セリオンと手を繋ぐたびに思っていた。
なんて顔をするの。
触れれば泣いてしまいそうな顔だった。悪魔のようだと侍従にも揶揄われる意地悪で冷酷な弟が。
「離れて、行かないでください。姉様。側にいてください。」
繋いだ指先が戸惑うように少しだけ強く握られた。緩やかに波打つ白金の前髪の間から、ゆっくりと上下する睫毛が見えた。ひっそりと濡れていた。
「あなたを、愛させて。セリオン。」
ただ一人、その身を挺して守ってくれた愛しい人。
望まれなかった自分よりもこの公爵家に相応しい美貌と、周りをひれ伏させる才覚を天から与えられた稀有な弟。
姉として生まれなければ、こうして視線を合わせることもなかったと思うくらい、似通ったところがない二人。
あなたの家族になれて幸福だった。
私も、きっとジェミニも。
顧みられない私たちは、あなたに庇護を求めるしかなかった。そんな枷などなければ、あなたはもっと羽ばたけたのに。あの純真無垢な学院の中で、同じ才能を競い合い、瑞々しい感性で付き合える友人たちと戯れることができたのに。
「愛してます。ファリティナ。あなたがいなければ、私は。」
セリオンの言葉をファリティナは首を振って遮った。
「あなたを愛したいの。誰にも隠すことなく。遮られることなく。だから、少し離れるわ。あなたを嗤い者にしたくないの。」
「ダメです。」
形の良い唇が、きつく結ばれた。男性にしては繊細な顎も、薄く色づいた唇も僅かに震えていた。
セリオンは隠すことなく愛を伝えてくる。血の繋がった家族に向けての域をとうに越えている。
初めて向けられた愛情に、ファリティナは溺れてしまいそうだった。そうできればどれだけ楽か。そのまま、セリオンの激流のような執着に囲われて生きていけるのなら。
その仄暗い背徳を抱えたまま、セリオンの才能に陰を落とすことを、ファリティナはできなかった。
「置いていかないでください…。」
震える声と共に、白い滑らかな頬に透明な涙が伝わる。ファリティナはそっと手を伸ばして、指先で掬った。
その指をセリオンがそっと握りしめる。温かい体温にお互いの存在を感じる。ファリティナが頬を緩めた。
風に、二人以外の気配を感じ、ファリティナはふと目線を動かした。
既にほかの弟妹は坂を下ったはずだったが、その道を上ってくる人影がある。
よく見ると一人ではなく、数名の男性だった。大きな体躯と整えられた服で、身分ある人たちだと遠目にわかった。
セリオンがファリティナを守るように肩を抱いた。
「…ギデオン王子殿下。」
人影はぐんぐんと近づき、間も無くはっきりと容貌がわかるようになった。
ファリティナと目が合うと、はにかんだように目元を緩ませた。
ファリティナの肩を抱き込むセリオンから服越しに苛立ちを感じ、ファリティナはそっと見上げた。
「何をしに来たのですか。」
歓迎の色はない拒否の声音に、ファリティナの方がびくりと体が震えた。
「水入らずのところを乱したことは重々承知だ。弟君を一緒に弔いたくて。」
「要りません。お帰りください。」
「セリオン。」
セリオンの腕に縋るように、ファリティナが掴んだ。ぎり、とセリオンの歯ぎしりが聞こえた。
「姉に近づかないでくださいと申し上げたはずだ。」
「確かに聞いた。了承もしなかった。」
凍てつくようなセリオンの怒りを、ギデオンはまっすぐ受け止め、答えた。
ファリティナはオロオロと二人を見比べた。
「弔わせてくれ。私の咎だ。あなたたちの大切なものを、浅慮で薄情な態度で切り捨てた。許してくれるとは思ってない。謝らなければ、いけないんだ。」
ファリティナが懇願するようにセリオンを目で制した。
元来た道を辿り、花畑でギデオンは膝をついた。
深く冥福の祈りを捧げ、無言のまま後悔を吐露する。ファリティナが溺愛した弟を見たのは一度だけ。彼女の腕の中で眠る、小さな存在。
不名誉を買ってでも、ファリティナが守りたかったもの。
きっと投影だったのだ。
顧みられない哀れなファリティナ自身の。
祈りから瞼をあげ、後ろに控えたファリティナを見た。色を失ったファリティナと視線が絡まった。
「済まなかった。」
長い沈黙の後、掠れる声で告げると、ファリティナの目が揺れた。
そして膝から崩れるように、落ちた。
「う・・・あぁー!」
短い慟哭だった。それだけで十分だった。セリオンが止めるより、ギデオンがファリティナの体を搔き抱いたのが早かった。
「ごめん。ファリティナ。ごめん。」
泣き伏して震えるファリティナに、ギデオンは囁いた。
震えから彼女の悲しみが伝わる。
それでも、ギデオンは嬉しかった。
彼女は生きている。悲しみを爆発させて。自分の腕の中で。