85 パトリシア
パトリシアは鈍器で殴られたような目眩に耐えていた。
身分や立場が邪魔して、表には出したことがなかったが、昔から密かに憧れていた相手だった。
その中性的な美貌も、優しい微笑みの後の色をなくしたような無関心な表情も。
氷のような、と表現されるのにぴったりな、どことなく突き放した態度も。
茶会や行事で見かけるたびに、目に焼き付けて。
紛れもない初恋だった。
だけど、この表情は見たことがない。いや、自分だけでなく、彼に憧れた全ての淑女も淑女でないものも、見たことがないはずだ。
ファリティナをうっとりと見つめるセリオンは、頬を染め、恋する乙女のようだ。
ふ、と視線を断ち切って、セリオンがパレルトを見た。
「これは我が兄弟の総意です。グランキエースに呵責のあるパレルトのご息女であれば、私たちの方針に意を唱えられない。」
先ほどの情熱はどこに消えたのか、冷気さえ漂う冷たい視線を送られた。
「そ、それではやはり、パトリシアを愛しては…。」
「何を血迷ったことを。そもそもが政略としての相手に恋だの愛だの最初からあるわけない。もちろん、信頼できる関係を築けるのならそれ以上の情も交わせるかもしれませんが、それは本人次第だ。」
鼻で嗤うようにセリオンが言い捨てた。
「セリオン。」
ファリティナが窘めるようにセリオンを呼んだ。
「だって、姉様。」
「いけません。今から人生を共にすると誓う相手に、最初から悪意のある言い方をするなんて。あなたらしくもない。」
ファリティナが注意すると、セリオンは見るからにしょぼんと眉を下げた、
「申し訳ありません。パレルト様。このような失礼なお申し出、断っていただいて結構です。ですが…。」
ファリティナはベールからブルーグレーの目を覗かせながら、パトリシアを見た。
「一度広まってしまった印象を覆すことはなかなか難しい。特に、私たちのような子女は、そのすべを持ちません。」
パレルト伯爵は苦く顔を歪ませた。国に仇す野心を抱き、権力の座から転げ落ちた家の娘に良縁は望めない。
息子と違ってそのあたりの事情が思いつかないほど、夢想家ではない。
セリオンとの婚約があるからこそ、伯爵家は没落を免れたといっていい。
この先、パトリシア自身を愛すると言って、縁を望んできた相手が、セリオン以上の良縁などあり得ない。むしろ、足元を見られ婢女のような扱いをされる方が現実として可能性のある話だ。
そして、ファリティナも。
これほど大きな傷を負っていることは知らなかった。それ以上に、王宮に幽閉されていたこと、王子との婚約を解消されたことは社交界で知らないものはいない。その理由や顛末は詳しく語られない。
ファリティナに関して良い印象はない。
「弟の言うように、私はこれから先もグランキエースの庇護のもとに生きていくしかないと思います。」
そう言ってそっと、傷ついた右目に触れた。
「この傷だけでなく、おそらくあなた様たちの耳に届いている醜聞も、真偽が正しくなくても薄まるのを待つしかない。本当に申し訳ないと思いますが、セリオンの妻になるということは、私のことも頭の片隅から離れない問題にはなります。どうかそのことをお心において、ゆっくりご検討くださいませ。」
ファリティナが俯くと、サラリとベールが揺れた。
その現実を見据えた真摯な姿勢に、パレルト伯爵は内心驚いていた。
悪評が示すような放逸な性格には見えない。
むしろ貴婦人としての品格を、若くして身につけた淑女の見本のようだった。
ファリティナ自身が言うように、悪評が広まった令嬢に良縁など望めない。それはパトリシアも同じだ。
それを甘言で誤魔化さない誠実さを感じた。
勢いよく、パトリシアが動いた。
父親の前にあった婚約の誓約書を奪い取ると、自ら万年筆を取り、署名した。
「パトリシア!」
「私に迷いはありません。ファリティナ様のおっしゃる通り、私はセリオン様以上の良縁など望めようはずもない。これは温情であり、破格のお申し出なのです。信頼が情に変わる可能性があると希望を与えてくださるなら、信頼にお応えできるように身を慎み、グランキエースのために献身いたします。」
パトリシアはピシャリと言って、セリオンを見た。
「ファリティナ姫こそグランキエースの正統な姫。心に刻み、誠心誠意、グランキエースのためにお仕えいたします。」
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あと2話で完結になります。
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