84 婚約
パレルト伯爵一家はグランキエース公爵邸のサロンに呼ばれていた。
伯爵の次女、パトリシアとセリオンの婚約の正式な調印のためだった。
セリオンの母であるグランキエース公爵代理はセリオンの告発によって身分を剥奪され、数日前に屋敷から出されている。
告発は情夫のガヴル子爵だけでなく、その派閥の長であるパレルト公爵の野望にも言及されおり、パレルト公爵は国王からの直々の下問を受けることになった。その責をとって、パレルト公爵は引退。継嗣は立てず、事実上、公爵位は返上されることとなった。
パレルト公爵が指揮を執り、グランキエース公爵領内のゼノ山脈から採れる鉱石類を他国に流すべく、ガヴル子爵を動かしていたことが明らかになったためだ。
その過剰に採掘した上質な鉱石類を使って他国の経済を底上げし、その影響力を強化しようとしていた。
一見、王国のためと思われるやり方だが、財源は他領の、しかも王国が管理を定めた鉱石類。結局は王家や軍部が懸念していたように、他国の武器技術を上げ、内紛の火種を撒く事になった。
そして、建国以来の名家であるグランキエースの実質的な乗っ取りを画策していたとみなされた。
パレルト伯爵は謝罪とともに勧められていた娘の婚約の清算をしようとしたが、セリオンは否と言った。
そして、この日、正式に婚約を結ぶため公爵邸に呼ばれた。
パレルト一家は絵に描いたような青ざめた顔だった。
先にサロンに通された一家の前に、セリオンとセリオンの姉、ファリティナ、そして弟のコリンが現れた。
ファリティナは薄布で作られたベールをつけていた。白金の髪を長く下ろし、古の聖女のように冠から下ろされたベール。ファリティナの楚々とした美しさが際立った。だが、その常にない出で立ちにパレルト一家は顔を見合わせた。
「このような形で申し訳ありません。」
セリオンに手を引かれて着席したファリティナがまず口を開いた。
「不調法にも目を負傷してしまいお見苦しい事になっておりますの。本当はあまり人前に出られる格好ではないのですが、この度の慶事にどうしても同席させていただきたくて。ご存知のようにこのグランキエースはここにいる私どもが、任を負う者となりますので。」
柔らかいがはっきりとした口調でファリティナは自ら説明した。
パレルト伯爵たちも少しは事情を聞いている。
セリオンは言葉少なに挨拶を済ませると、婚約書類を並べさせ、執事に説明させた。
「あの、セリオン公子。」
パトリシアの兄が、勇気を振り絞って声をかけた。
つい、とセリオンが切れ長の目を向ける。その瞬きに言いようのない色気を感じ、一瞬押し黙った。
「…本当に、パレルトでよろしいのですか。色々な思惑があったにせよ、この、今のこの状況は私どもの祖父の強欲な野心が引き起こした。その仇敵の家の娘を、本当に妻に迎えるつもりですか⁈」
切羽詰まった言い方を遮るように、セリオンは目の前の書類に自筆でサインを入れて、万年筆を締めた。
そしてパレルト側に書類を向けた。
その白く整った指先に、パトリシアは胸がキュ、と締まった。
怜悧な白刃のような煌めきを持つセリオン。甘言とともに向けられた微笑みには常に冷酷な陰があった。それを含めて、目を離せない、抗いがたい魅力があった。
「私はこれ以上ない良縁だと思ってお話を進めています。」
セリオンは身を起こし、佇まいを直した。
「本当ですか⁈本当に妹を、パトリシアを幸せにしてくれるのですか⁈」
「さあ、それはどうでしょうね。」
セリオンが淡々と答え、一同は押し黙った。
ファリティナがベール越しに眉を寄せてセリオンを窘めたのがわかった。
「どんな結婚でも、一方の努力だけでは幸せになどなれない。どんな場所でも、命さえあれば、自らで切り開く覚悟さえあれば、笑いあえる日が来ると思いますよ。」
「そ、それは。」
「ご本人次第と言っているのです。当然でしょう、政略の結びつきなんてそんなものだ。」
セリオンはパトリシアの兄をじっと見つめ、やがて寛容の眼差しで目元を緩めた。
パトリシアの兄は思わず目をそらした。
「ここまでお話を進めましたが、どうしても気乗りしないと仰るなら無理を通す気はありません。」
にこり、とセリオンはパトリシアに微笑みかけた。
「私どもはパレルトの人脈と流通を手に入れ、あなた方はグランキエースの傘下になることでこの不名誉を払拭する機会を手に入れる。この取り引きに不満があるというのなら結構、私どももこれ以上、厄介ごとを引き受けてまでとは思っていませんので。」
「いや!いや、違います!公子!」
パレルト伯爵が慌てて割り込んだ。
「この結びつきに不満があるわけではないのです。その、そうではなく、私たちも人の子、娘が不遇になる事を諸手を上げて進められない、それだけで…」
「まだ不幸になるかどうかもわからないのに?状況的にそういう懸念をされることもわからないではありませんが。まあ、私のことを信用されていないということでしょうね。」
ふふ、と不快感も見せずセリオンは笑った。
パレルト伯爵と子息は、汗をかきながら、もごもごと口を動かした。
「その、信用というか。そ、そうではなく。やはり不可解なのです。政略であればあなた様ほどの人なら、仇敵であるパレルトでなくてもいくらでも望める。それなのに、我が娘をと望まれるその意図が。」
「ええ、お察しのとおりです。私は恋い焦がれてパトリシア嬢を望んだわけではありません。私の望む人生において、最良の人だと思うだけで。」
そう言うと、セリオンは隣のファリティナの手をそっと握った。
「ご覧のとおり、我が姉はキズものになりました。身体的にも、外聞としても。」
セリオンはファリティナの顔を覗いた。ファリティナはベール越しにまた難しい顔をして、セリオンをにらんだ。
その顔に、優しく笑ってみせた。
「私はグランキエースの正統な後継は姉だと思っています。私はたまたま男として生まれ、少しばかり才があったので父に指名されましたが、それも姉に公爵の負担を負わせず、心安らかに人生を送ってほしいという親心だと思っています。」
ファリティナに言い聞かせるように、優しいゆっくりとした話し方でセリオンは言った。
「ですので、私が伴侶に望むのは、この姉をグランキエースの柱として敬い、侍ることです。」
ファリティナの繋いだ手の指先を、セリオンの親指が撫でた。
「この方より大事なものは、私にはありません。何を差し置いても、この国を蹴ってでも私はファリティナと生きていきたい、そう希ってグランキエースに降りかかる禍を振り払った。」
自分たちは何を見せられてるのだろう。
こちら側から仕掛けたとはいえ、いきなり始まったセリオンの愛の告白に、パレルト伯爵はあんぐりとするしかなかった。