80 ホランド一族
ホランド一族は元は一子爵家に過ぎなかった。
領地はどこにでもある農耕地帯で、政治に絡むこともないので派閥としてはどこにも属していなかった。
そもそもが派閥に与するほど政治に近いわけではなかった。
その目立たない地方貴族から、目の覚めるような美女を輩出できたことが、運命の変わり目だった。
内政のグランキエース。王国の盾と言われるこの国で最も高貴な公爵家の後妻にその美女が迎え入れられたことは、今まで大きな権力とは無縁に過ごしていた一族にとって誉れだった。
公爵夫人は、実家の一族に栄華をもたらした。
今まで縁のなかった王都に屋敷を作らせ、一族を呼び寄せ、公爵家の伝手を使って仕事を与えた。
一番多かったのは、嫁ぎ先の公爵家の使用人だった。
女主人として公爵家の屋敷を取り仕切るのに、古参の派閥家から出される良家の子女たちは煙たく、公爵夫人は次々と使用人を替えていった。
公爵の寵愛も厚く、次々と子どもが生まれるので、その世話人を雇い入れる必要もあった。
フィリアが物心ついた時は、ホランド一族は公爵家の屋敷の中ではそれなりの地位にいた。
フィリアは公爵夫人の姪になり、公爵夫人に一番似ていると言われていた。社交界の華と謳われる公爵夫人に似ていることは、フィリアの自慢だった。
当然、姿形は美しく、誰もがフィリアを褒めた。
両親も公爵夫人も、フィリアのことを可愛いと褒めてくれた。
だけど、フィリアにも勝てない美しさがあることは、すぐに分かった。
従兄弟になるセリオンは、フィリアなどには足元に及ばない美しさがあった。
中性的だが、女の子には見えない。品があり、凛とした佇まいは生まれながらに特別な才能を持ったものの自信があった。
セリオンが特別な才能を持った貴公子だということは、既に知れ渡っていた。
話してみると気さくで、笑うと可愛らしく、フィリアは2つ年下の従弟の特別になりたいと思った。そして、実際、そうだった。
公爵夫人は度々自分の両親と兄弟の家族を呼んで、宴を開いてくれた。
身分があって、自分からは実家に出向くことはできないから、と、普通の人では足も踏み入れることができない屋敷にフィリアたちは自由に出入りできた。
フィリアたち姪甥の誕生日もそこで開いてくれた。まるで公爵家の家族のように、公爵家の使用人たちはフィリアに接した。
公爵家の屋敷にいる間は、フィリアはお姫様だった。
だが、公爵家には本物の姫がいた。
公爵夫人の前の夫人の子ども。
セリオンの本物の姉になる、ファリティナだった。
ファリティナは公爵夫人が開く楽しい宴には一度も出てきたことがない。
時々、庭に面する窓から、自分たちの様子を眺めていることは知っていたが、ホランド一族が来ても挨拶に来ることもなく、よく磨かれた窓から睥睨しているだけだった。
お嬢様は本物の姫だから。と大人たちは言った。
この国で最も高貴な血筋を引く姫。
グランキエース公爵家とコンスル公爵家、それぞれ正統な血筋を持つ二つの公爵家の血を引く。
そう崇め諂って、その後、必ず言うのだ。
それでも、公爵夫人の美貌には勝てなかった可哀想な前夫人の子だと。
だから、大したことはない、と言外に言っていた。
ある日、フィリアは淑女のための女子学園に合格した報告をしに公爵家へ来た。
もし、立派な淑女になれたら、もしかしたらセリオンと婚約できるかもしれない、そんな仄かな夢を描いていた。
合格のお祝いを伯母の公爵夫人に祝ってもらい、その場にいた従姉妹のセアラに言った。
「セアラ様も、私と同じ女子学園に来れるといいわね。本物のお姉さまになりたいわ。」
公爵夫人は、楚々と笑った。
「セアラはダメよ。きちんと貴族学院に通わなければ。」
え?!ととても驚いた。
貴族学院なんて、領主や王宮に努めるほどの人たちが行くところだ。女子のセアラがそんなところに行くなんて。
「公爵家の娘が、貴族学院にも入れないなんて恥ずかしいわ。淑女教育なら屋敷でできるもの。」
公爵夫人は、つい、と眼差しをフィリアに向けた。
そこには傲慢があった。
今まで、家族のように仲良くしてくれていたのに、あきらかな身分差を感じた。
フィリアは屈辱だった。
公爵夫人に似ていると言われて、まるで公爵夫人の子どものように可愛がってもらってると思っていた。
今まで、何度となくセリオンと婚約したいと仄めかしてきたが、躱されてきたのはそう言うことだったのか、と頭を殴られたようだった。
帰り際に、開け放たれたサロンからダンス曲が聞こえた。チラリとみると、セリオンがファリティナとダンスをしていた。
ちょうど、レッスンの時間だったらしい。
二人はまだ10歳を少し超えたばかりだというのに、とても優雅だった。
悔しい。
フィリアは思った。
姉だからって、あんなふうにセリオンと踊れるなんて。
今でも公爵家で開かれる宴の時は、セリオンは気さくに話してくれた。だけど、最近は大人たちがセリオンを取り巻き、話す内容もフィリアには難しいことばかり。それでも、セリオンは小さな従姉妹や弟妹たちより、フィリアと話す事を楽しんでいるのだと思っていた。
そんなふうにセリオンと気安く話ができるのは自分だけだと。
音楽が止み、休憩に入った。
ふとセリオンと目が合い、セリオンの美麗な目元が緩んだ。
フィリアの心は跳ね上がった。
セリオンはわざわざ、フィリアのところまで来てくれた。
フィリアは女子学園に合格したことを報告し、セリオンからも言祝ぎをもらった。
すると、違うドアから、ファリティナがサロンから出て行くのが視界に入った。
音もなく優雅に、ファリティナは歩いていた。後ろからは二人の侍女が傅き、その一人がファリティナのダンス用の踵の高い靴を恭しく持っていた。
「姉様、ファリティナ。」
セリオンが呼びかけた。
ファリティナが振り向いた。
近くでファリティナの顔を見たのはその時が初めてだった。
なんて不細工なの。
フィリアは思った。
セリオンと全く似てない。
公爵家に努める気位の高そうな侍女の方がよっぽど美しく、凛としていた。
凡庸で冴えない顔の彼女を見て、フィリアの心の中に侮りが浮かんだ。
「まだです。サロンで待っていてください。」
「まだやるの?セリオン。」
ファリティナが不満げに言った。
「姉様が完璧に覚えるまで、やります。」
セリオンが言うと、ファリティナが、む、と口を尖らせて、疲れたようにため息をついた。
後ろで教師が笑った。
「相変わらず、お厳しいです。セリオン様。」
それでも、ファリティナはすごすごとサロンに戻っていった。
セリオン、とファリティナはセリオンを呼んだ。
セリオンを呼び捨てた。
そのことが衝撃だった。
セリオンは伯母の子どもだが、子どもとは言えないくらい身分が高いのだ、となんとなく知っていた。この公爵家の継嗣ということは、公爵と同じくらい身分が高い。
この家にいる誰よりも身分が高い。
セリオンを呼び捨てにできるのは、セリオンの両親ぐらいだと思っていた。
それなのに。
あの凡庸な少女だけは呼び捨てることができるのだ。
姉だから。
セリオンもファリティナのことを姉様、と呼んだ。
そんな呼び方をしてもらえるのも、ファリティナだけだ。
ひどい。
フィリアは思った。
ただ、公爵家に生まれただけのくせに。
公爵は伯母に夢中なのだと大人たちは話していた。
本当は伯母と最初に結ばれたかったに違いない。だから、あんなに早く後妻に入ったのだ、とひそひそと噂した。
セリオンのように美しく、才能があるわけでもないくせに。ただ姉に生まれたというだけで、あれほどの贅沢ができて、セリオンのエスコートを受けてダンスをしてもらえる。
それを有難いとも思っていない。
セリオンと手を取れること、その名を呼べることがどれほどのことかわからない、無知な女。
フィリアの中に怒りの暗い火がついた。