77 許してほしい
あなたに相応しいのは自分しかいない。
箱庭では分からなかったこと。
身分が何を指し示すのか。
それが何を守っているのか。
生まれながらに負わされた地位の矜持と責任は、自分以外のたくさんのものを守るためにある。
その覚悟を洗脳のように染み込まされた二人はこれほど似合いだというのに、どうして手を離してしまったのだろう。
今では、ただ謝ることしかできない。
××××××××××
それなのに、ファリティナはギデオンに言った。
「謝ってはいけません。ギデオン王子殿下。」
ギデオンは驚いて顔を上げた。
ファリティナは先ほどの微笑みを収めていた。
「あなたはこの国の至宝。導くともし火です。無謬の存在でなければならない。この程度のことで、私ごときに謝ってはいけません。私たちは臣下です。あなたの手足であり、あなたが間違ったとしてもその責を共に背負う者です。そうなる前に、私たちはあなたを止めなければいけなかった。それができなかったのは、ひとえに私に臣下たる力がなかったためです。耳を傾けるにふさわしい信頼も魅力もなかった。それは殿下のせいではないのです。」
どうして。
ギデオンは心の中で嘆息した。
どうして彼女はこんなに大人なのだろう。いつからこんなふうに大人になったのだろう。
婚約関係がなくなった今、彼女との距離は王族と臣下になった。
ファリティナはその立場を崩さない。
学院の学友の前に、臣下。この国の盾、グランキエース公爵の子女。
これほどまでに厳しく自身を律している彼女が、あんなに屈辱的な悪評を、どうして受け入れるのか。
「謝らないでくださいませ。謝ってしまえば、あなた様を信じてついてきた方が、道に迷います。あなたは誰よりも気高く、公正なのです。そう信じてついてくる者たちのために頭を下げないで下さい。」
「それじゃ、君はどうなるの?」
ファリティナが不思議そうに首を傾げた。
「どうなる、とは?」
「私が子どもだったから、無知だったから、君は取り返しのつかないことになった。体も心も傷ついて、大事なものを失った。二度と元に戻らないものもある。君は巻き込まれただけだ。無知蒙昧な輩に傷つけられただけだ。私は、君を守らなければいけなかったんだ。将来の伴侶として、傷つけられないように君の盾にならなければいけなかった。それを怠ったから、こんなことになったんだ。それを、悔しいと思わないのか?私がしっかりしていればこんなことにならなかったのに、と思わないのか?」
「全ては、結果から見たことですもの。」
「結果?」
「今から振り返ってみたらそうなのでしょう。でも、でもね。」
ファリティナが柔らかく言った。
「その時は、それぞれ、最良の答えを出したと思ったのですもの。その時の無知を結果から見て裁くのは酷だと思いますわ。」
やり方が悪かったのです。ファリティナは悲しそうに笑った。
そのことに気づくのが遅すぎた。それだけなのです。と。
「私を恨みに思う方は多い。それは分かっていたことでした。私はもっと気をつけて、足を掬われないように気をつけるべきでした。」
「恨み?どうしてそう思うんだ?」
レミルトン家との確執のことだろうかとギデオンは思った。
まさかそれを利用して、ここまでのことをされるなんて、誰も思っていなかった。
ファリティナを罠に落としたアクンディカ伯爵令息には、ファリティナへの個人的な恨みはなかったはずだ。
彼らの間には、特別な接触は一切ない
公的な場で挨拶を交わすくらいだろう。
ファリティナが多少、居丈高な態度をしたとしても身分差があるので当然の事だ。ファリティナが頭を下げていいのは、王族だけ。
単なる逆恨みだ。
「この国の一番裕福な家に生まれて、なんの努力もせず誰もが羨む王子様を手に入れたのですもの。それがセリオンのように周りが納得いくほど素晴らしい人格ならまだしも、私のように凡庸で、どこにでもいるようなものなら、周りから恨めしく思われて当然だと思います。」
「それは、公爵家に生まれたことはあなたが望んでそうなったわけじゃない。それこそ仕方のないことじゃないか。」
「ええ。ですが、人間ってそういうものですわ。その立場にたったのなら、誰もが納得のいく人であってほしいと思うものでしょう?だからみんなが納得できるように努力する。私も一応、したつもりだったのですが、あの体たらくでした。努力も才能のうちと言いますが、本当にそうなのですね。私とセリオンでは、蚯蚓と龍ほど違う。でも、そんなことは関係無いのです。周りにとっては。」
厳しい言葉だった。ファリティナはこの厳しい言葉を胸に、姿勢を正してきたのだとわかる言葉だった。
「やり方が悪かったのでしょう。私は反省しなければいけないものがたくさんあったのです。蚯蚓は蚯蚓なりに、周りが納得するような努力の見せ方があったのかもしれないと、今は思います。気高く、誰もが屈服するような、そんな努力ではなく、私の場合は、蚯蚓にふさわしく、泥にのたうちまわり、同情を誘えば良かったのです。実際そうすることで、私の兄弟の命は永らえられた。」
そう言ってファリティナは不恰好に笑った。あまりにも卑屈な結論にギデオンは衝撃過ぎて言葉を失った。
「けれど全ては結果から見た反省です。過ぎてしまったことを思い悩んでいては、新しく目の前に出てくる大事なものをお座なりにしてしまう。反省したら、次の一歩を踏み出して、そうすることで賢さを身につけていくことが、過去の過ちに対する贖罪だと思うのです。」
過去の罪を問わない。
とても難しいことだと思うのに、何故そんなにも寛容でいられるのだろう。
ファリティナの生来の寛容さなのか。
経験からくる反省なのか。
だけど、とても悲しい事だとギデオンは思う。
自分を殺さなければできないことだ。
一度の経験ではこんなふうに物分かり良くならない。
ファリティナは一体、何度、この辛い想いを閉じ込めてきたのだろう。
「そうやって、君はいつも、許してきたの?」
ファリティナはキョトンと瞬いた。
「私には、いつも許さなければいけないことなどありませんでしたけど。」
ギデオンが驚いた。
「私を恨みに思う方は多いので、そういう方にはそう思って、私のことを許してほしいな、とは思います。」
ファリティナはまたおっとりと微笑んでみせた。