76 謝ってはいけません
ギデオンは少々緊張気味に背筋を伸ばした。
レミルトン邸の門番が、ギデオンの馬車に最高礼をして通した。
ファリティナがレミルトン邸で静養していると聞いて、ギデオンは直接、ディアス=レミルトンに接触し、ファリティナに会えるように頼んだ。
レミルトン卿はとても喜んで、今日の面会を調整してくれた。
「あの悪魔のような弟君がうるさいので、どうぞお忍びでいらしてください。」
レミルトン卿に念を押された。
サロンでは、ファリティナが立って出迎えてくれた。
わざわざここまで出向いて見舞ってくれたこと、王宮では格別の配慮をしてもらったことを完璧な口上で述べられた。
ああ、こういう人だった、とギデオンは思い出す。
婚約し立ての頃から、公爵令嬢としての礼儀作法は完璧だった。それがギデオンには少々窮屈に感じていた。
少し前までのギデオンは。
今はその完璧な仕草が眩しく見える。
礼儀作法を叩き込まれて入ったはずの貴族学院でも、これほど洗練された作法ができるのはグランキエースの姉弟ぐらいだろう。教育と経験に裏付けられて身についた証拠だ。
「こちらこそ、突然の訪問を快く受けてくれてありがとう。心配していたんだ。どうだろうか?傷は。」
着席を勧めて、ギデオンは聞いた。
「ご厚情痛み入ります。あとは日にちが治すものなので、今はこれといった治療はしておりません。眼帯は急な刺激を避けるもので、本来なら室内は必要ないのですけれど、眼球が白く濁って見苦しいので付けさせていただきました。お見苦しくて申し訳ありません。」
ファリティナは少し目線を下げて、微笑みながら言った。
「少しずつ、治っていっているのかな?…見えなくなることもあると聞いたが?」
「今はまだわからないそうです。今は形は捉える事ができますが、ほとんど白く見えているだけなので。」
「ですので殿下からのお見舞いの品はとても慰められます。可愛らしくて、とても気に入ってます。ありがとうございます。」
そういうと、ファリティナはにっこり笑った。
務めて明るくしているのがギデオンには分かり、心が痛くなる。
こんなふうに笑えるほど、彼女の傷は浅くない。
目に見えない傷を抱えて、痛くても泣くこともできない。
そんな姿をあの幽閉された部屋で見てしまったから。
「目を、見せてもらえないだろうか?」
ギデオンが言うと、ファリティナは、す、と表情を変えた。
とても心細そうな顔だった。
それでも、ギデオンは引き下がらなかった。
ファリティナはそっと眼帯を取った。
予想以上に変質してしまったその目に、ギデオンは息を飲んだ。
右目は真っ白に濁って、虹彩も瞳孔も見えない。
ファリティナは戸惑って、恥ずかしそうに目を伏せた。
「お見苦しいものを…。」
ギデオンは言葉を遮って頭を振った。
「違う、違うよ。ファリティナ。」
「見苦しいんじゃない。そうじゃないんだ。」
そう言って、そっとファリティナの頭を撫でた。
「痛みは、ない?」
「…はい。」
そうか…。そういうとギデオンは侍従に言って、ファリティナに眼帯をつけさせた。
「無理言って、見せてもらってごめん。嫌だっただろう。」
ファリティナは戸惑って、唇を開けたり閉じたりした。
「本当にこんなことになってすまない。私がもっと、ちゃんとしていれば、こんなことにならなかったのに。」
「この傷をつけたのは殿下ではありません。」
ファリティナはふわふわと微笑んで答えた。
「グランキエースに厚情をくださり、ありがとうございます。本来ならば、一族もろとも、命をもって償うべき背任行為であったのを、殿下のお口添えもあってグランキエースは廃爵せずに済んだと思っております。この先もご恩を忘れず、王国の盾として尽くしてまいります。」
そう言ってファリティナは頭を下げた。
その肩を留めるように、手を置いた。
ファリティナは不思議そうに顔を上げた。
「やめてほしい。君たちは何も知らなかった。公爵代理の横暴だったんだ。君は…君だけが多くのものを失った。それは私の罪だ。婚約者として君を守らなければいけなかった。」
ファリティナは曖昧に笑った。
「そのことについては、以前にも謝っていただきました。ですので、もう忘れてくださいませ。」
忘れるなんてできない。ギデオンは驚いてファリティナを見た。
「そんなこと。できない。してはいけない。」
「そう言われましても。」
ファリティナは相変わらず微笑んでいた。
「そうでないと、次に進めませんもの。知らなかったことが罪にならないと殿下はおっしゃってくださいました。それならば、殿下も同じですわ。私のことを、グランキエースのことをご存知なかったのですから。当然だと思います。国に充てがわれただけの相手に、必要以上の興味など、最初から持てない。私個人に興味関心がもてなかったのは、ひとえに魅力がなかったからですわ。」
「違う、そんなことはない!」
謙遜にしては卑屈な言葉にギデオンは大きな声で止めた。
そんなことを言わせたいわけじゃない。
ファリティナはふわふわと笑った。
「魅力がなければ、努力して魅力を持てば良かったのです。アマンダ嬢のように。それを怠ったのは私でした。ですから、仕方なかったのだと思います。」
ギデオンは否定する言葉を探した。
違う。
魅力がないなんて、そんな言葉で貶めないでほしい。
だけどそう思わせた原因は自分なのだ。どれだけ否定しても、起こってしまった過去のことは覆せない。
だが、出てこないあいだに、ファリティナは語った。
「仕方なかったのです。どんなに法や倫理で縛っても、人間は悪いことをするし、好みや愛情の向きを変えられない。人の心は他人では変えられないとつくづく思います。愛らしく、心惹かれるものに手を伸ばしたくなる。それが本能ですもの。」
ファリティナは小さく息をついて、目を落とした。
「光があれば影は必ずある。選ばれるのと反対に必ず、努力しても報われないものがある。そういう不運な持ち回りってあると思うんです。」
言い聞かせるような言葉にギデオンは胸が掻き毟られるようだった。
こんなふうに、ファリティナは理不尽を飲み込んできたのだ。
許してはいけないことも。
「ごめん。」
ギデオンは自分が情けなくて、言った。謝ることしかできない。
魅力がない。報われないこともある。
そうやって自分で自分を貶めて、理不尽を怒ることもできなくしたのは自分だ。
楽しいだけの箱庭に守られて、仮初めの楽園で悦んでいるときに、彼女は自分の足元が崩れ落ちる地響きを震えながら聞いていた。
消えそうな命の弟を抱きしめて、どうか幼い兄弟だけは助けたいともがいていた。
歩み寄らなかったのは自分だ。
知るべきことを知ろうとしなかったのは、自分のほうだ。
知らなかったでは済まされない罪がある。ファリティナが傷つき、その目が元に戻らなくなるかもしれないという現実を見せられているこれこそ、ギデオンにとっては自分が傷つくより辛い罰だ。
どうして、ファリティナが。
どうして、何もしていない彼女が。
不遜な強欲のためにこんな目に合わなければいけなかったのか。
どうして、誰も彼女を守ろうとしなかったのか。
そう考えると、全て自分に返ってくる。
守るべきは、お前だったのだ、と。