74 コリン
セリオンがレミルトン邸を訪れた時、ファリティナはミネア夫人達と庭園でお茶をしていた。
ミネア夫人は出来るだけ、食事とお茶の時間を共にしようとしてくれるので、1日のほとんどの時間を夫人とともに過ごしている。
ミネア夫人もだんだんとファリティナのことが分かってきた。
ファリティナはのんびりとした性格で、良くも悪くも鷹揚だ。環境の変化も、自分の身の上の不幸もあまり深刻に捉えすぎず、成り行きを見守っているだけに見える。
好みはあるが、好き嫌いもなく、ミネアが提案するものに諾々と従うだけで本当は何を思っているのか、掴み所がない。
そんなファリティナを見ると、王宮で見ていた婚約者に対するわかりやすい好意は、ファリティナにとって特別なものだったのだろうと心が痛んだ。
何事にも執着しないファリティナが唯一、手を伸ばし掴もうとしたもの。
それなのに、一顧だにせず振り払われてしまった。
社交界で広まるような、悪辣な性格でないことはすぐに分かった。それなのに噂が広まってもどうすることも出来ず、舞台の袖に隠れるように屋敷に閉じこもるしかなかったファリティナが哀れだった。
その挙げ句が、将来を約束された婚約の解消と元に戻るかわからない失明の危機。
それも義理とはいえ実の母親からの暴力。
大人しく祖母と侍女たちのおしゃべりに耳を傾けているファリティナの心中と将来のことを思うと、ミネアは自分たちのしてきた仕打ちを情けなく思うしかなかった。
ファリティナのことはとても可愛い。
わがままは言わず、借りてきた猫のように警戒心も露わに大人しく過ごす孫娘に何でもしてやりたい。
だけど、やり過ぎると恐縮してしまい、余計に閉じこもってしまう。
その匙加減が難しく、また愛おしい。
弟のセリオンが溺愛する理由が、ミネアにはわかった。
「ああ。それが昨日言っていた眼帯ですね。いいじゃないですか。可愛らしい。」
セリオンはファリティナの新しい眼帯を手放しで褒めた。
傷が塞がり、血が滲むこともなくなったので頭全体を巻く眼帯から、怪我している右目だけを塞ぐ眼帯のみに変えた。
ファリティナは海賊のような黒い厳しいものを想像していたが、レミルトン邸の侍女たちが用意してくれていたのは柔らかい布で目を覆う取り外しがしやすいもの。
室内ではつける必要がないと医師が判断したため、急な刺激を保護するためのものになった。
庭園での散歩の際にはさらに目深に被れる帽子を被り、直射日光や風の刺激を避けるように気を遣っている。
「ダイアナが器用に作ってくれたの。締め付けが無くて頭が軽いわ。ありがとう、ダイアナ。」
ファリティナはミネア夫人の隣に座る侍女に微笑んで礼を言った。
セリオンも優しく微笑んだ。
「姉様に合うものを作ってくれてありがとう。海賊に憧れているようなことを言うから、眼帯と聞いて心配していたんだ。」
「あら、きっとカッコいいのに。悪役っぽくて、いいでしょ?」
まだ諦めていないようなファリティナに、セリオンは小さく息をついて、そっと肩を撫でた。
「あなたは生まれながらの姫ですよ。そんなものは似合いません。」
悪役令嬢。
その肩書きは呪いのようにファリティナに染み付いている。
ファリティナはセリオンの向こう側に立つ人影を認め、ふわりと笑った。
「お帰りなさい。コリン。」
コリンは泣きそうな顔をぐ、と引き締めて、ファリティナの前に出た。
こんな姿じゃなかった。
コリンの前にいた姉は、いつも令嬢らしく髪を高く上げて、少し重そうなドレスを颯爽と着こなす、背筋の伸びた女性だった。
こんなに小さく、こんなに華奢で儚そうな。
その柔らかい懐かしい声に泣きそうになった。
「…ただ今帰りました。ファリティナ姉様…。」
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コリンはグランキエース公爵家の重要な決定に立ち会うため一時戻った。
皇国の騎士学校に入学して、生活に慣れた頃、実家から執事の一人が訪ねてきた。兄セリオン付きのその人は、公爵家の柱である執事長の覚えも目出度い人物だった。
実家で何かあった。
コリンは、きゅ、と身が締まった。
弟妹のジュリアンとセアラを皇国に留学させること、末弟のジェミニの具合が悪いことを告げられた。
二人の留学に際して、皇国に滞在することになるグランキエース兄弟の3人が集えるように屋敷を用意する。
幼い弟妹たちの様子をできる限り見てほしいとセリオンが伝言してきた。
言われるまま、週末の休みのたびに何軒かの物件を見て回るうちに、執事は少しずつ話してくれた。
ファリティナが拘束されていること。グランキエース公爵家が謀によって乗っ取りを企まれていること。
ファリティナの機転でセアラの留学の準備は少しずつ進められていたが、ジュリアンも王国から出すことになったので、学校を探すこと。
甘えている場合ではない。
コリンは子どもの皮をいきなり剥がされた感じだった。
執事は申し訳なさそうにコリンに言った。
「あまり負担にならないように、とセリオン様は心配されています。このようなことを突然知らされて、動揺されるだろうと。セリオン様もできる限り早く、ファリティナ様をお救いしてこちらに向かうと。どうぞ、セリオン様を信じてお待ちください。おそらく、来週あたりからセリオン様に傾倒していた研究所の者たちがこちらに参集致します。主人たるご兄弟がお揃いになる前に屋敷を使わせて頂くことになりますが、お許しください。」
コリンは鷹揚に頷いた。
本気なのだ。
ジェミニが亡くなったと連絡があり、
すぐにジュリアンとセアラがやってきた。
二人とも憔悴し、母親譲りの美しい顔を真っ青にして、コリンを見るとセアラはポロポロと泣き出した。
ファナ姉様が帰ってこなくなった。とセアラはわんわん泣きながら、コリンに話した。
ジュリアンはセアラの背中をずっと撫でていた。
何か良くないことが起きているのはわかるが、誰も言わない。セリオン兄様だけが、信じて待ってくれと言って皇国に送り出された。
自分たちはどうなるのか、ファナ姉様はちゃんと生きているのか、とセアラは泣いた。
セリオンの寄越した執事が、初めて全容を話してくれた。
貴族同士の争いによって、ファリティナは罠を仕掛けられたこと。ファリティナは冤罪だが、釈放することで新たな罠を仕掛けられることを恐れて、今は王宮で保護してもらっていること。
だが、ファリティナの婚約は解消されたこと。
ファリティナの婚約解消は兄弟はショックだった。
そのことが、自分たちの立場が今まで通りではなくなった象徴のようだった。
残念ながら、母親の公爵代理ではこの事態を収められない。ファリティナとセリオンはそう判断して先にジュリアンとセアラを皇国に逃がした。セリオンが今、できる限りの財産を処分して、ここで恙無く暮らせるように努力している。必ずファリティナと共にこちらに来るから待っていてほしいと言われている、と執事は励ました。
「・・・お母様は・・・。」
ジュリアンが真剣な表情で話し始めた。
「お母様がジェミニを殺したんだ。」
その場にいた全員が凍りついた。
「ジェミニだけ違う顔だった。お父様にもお母様にも似てなかった。だから邪魔だったんだ。きっと、姉様も。姉様はお母様が違うから…。」
そこまでです、ジュリアン様。執事が厳しく窘めた。
「まだ口に出してはいけません。全容はいずれわかります。軽々しく口にすれば、また誰かに足元を掬われるかもしれません。お姉様、お兄様があなた方を守るためにここまでしてくださったのです。どうぞご自分たちの身を案じて、慎重になさってください。」
コリンは後に、執事と話し合った。
「グランキエースの困窮の原因は公爵代理である奥様にあります。成人されているとはいえ、まだ若いお姉様やお兄様ではこの状況はどうしようもない。そして婚約も解消されました。それも王子の心変わりによってです。グランキエースは王国の信用も後ろ盾も失ったのです。セリオン様は王国以外で生き延びる道を探されてます。ファリティナ様もそのためにご自分を犠牲にされ、時間を稼いでる。コリン様ができることは、ジュリアン様とセアラ様に心を寄せて、励ましてあげることです。お姉様お兄様がこちらにこられるまで、希望を失わずにいてください。」
「大丈夫ですよ。あなたのお兄様は天才です。ジュリアン様ぐらいの時から、どうしたら国が滅んでいくのかを研究していた魔王です。滅多なことでは死にはしない運の良さもある。信じて待ちましょう。」
そう明るく言われて、コリンは頷くしかなかった。