63 母への憧憬
ダイアナは元気でいるだろうか。
ファリティナは目が覚め切らない頭でぼんやり思った。幼い頃の嫌な思い出はいつまでもつきまとい、ファリティナを惨めにさせた。
ダイアナはいつのまにか消えた乳母に代わり、幼い時からファリティナに付いていた侍女だ。
いつも口を真一文字に結び、目だけでファリティナの様子を注意した。
それはファリティナの前では教育係を兼ねた侍女だったからだと、ファリティナは知っていた。彼女は、息子や息子の主人となるコリンにはとても明るい優しい笑顔だったから。
ダイアナは、無事息子に会えただろうか。
本当は自分の世話などしたくなかったのだ、とファリティナは知っている。
ダイアナは、本当は、コリンとコリンの側仕えの彼女の息子の下で働きたがっていた。
そのことに、ファリティナはいつも申し訳ない気持ちでいた。
だから、宝石を渡した。
ファリティナなりの、精一杯の感謝のつもりだ。
去年の今頃、ジェミニの薬代を工面するために、公爵領で買い漁った宝石を服飾商に売っていた。
売るのはジェミニの侍女たちに任せていたが、ダイアナだけには自分の部屋に隠した宝石を教えていた。
「もし、わたしがこの屋敷からいなくなるときに、これがあったら、あなたが持って行って。」
ダイアナは怪訝な顔をした。
「コリンについていった息子さんのところに行きたいのでしょう。旅費の足しにすればいいわ。持っていて困るものじゃないでしょ。」
言葉通り、釈放されて確認すると、ダイアナとともに宝石は消えていた。
ダイアナの息子はまだ、コリンの侍従として皇国で一緒に騎士学校に入っているはずだ。
辞めていなければ、ダイアナも皇国にいるのかもしれない。
ダイアナは乳母のように、ファリティナを傷つけて躾けることはしなかった。
それだけでも、随分優しいと思っていたが、あのとき、廊下から聞こえた言葉を聞いてファリティナは気づいた。
自分はダイアナの子どもじゃない。
ダイアナが守っているのは息子だけで、自分じゃない。
いつか、あの小さな息子が大きくなったとき、ダイアナはいなくなってしまう。
母とはあんな人のことをいうのかもしれない。となんとなく抱いていた憧憬は消えた。
自分には母はいない。
母の命と引き換えに生まれてきた自分には、母はいない。
いつも父の横に寄り添い、優しげに微笑んでいる母はセリオンとコリンと小さな双子の母であり、自分の母ではない。
ファリティナが母の違う子どもということは、ダイアナの前の乳母がいつも言っていたから知っていた。
だから、自分には母はいない。
母と繋がる祖父母や、叔父叔母もいない。
義理の母は、よく自分の家族を公爵家へ呼んでいた。その中には兄弟もおり、セリオンたちの正真正銘の従兄弟になる子どもたちもいた。
その賑やかな集まりにファリティナは呼ばれなかった。
公爵家の庭園で開かれている昼食会を、ファリティナはベランダから羨ましく見ていた。
誰かが、ファリティナを見つけ、子どもが指差した。
その子どもに侍従たちが耳打ちすると、子どもはセリオンの腕に自分の腕を巻きつけて、背を向けて、見えない茂みに消えてしまった。
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うつらうつらしていたことに気がついて、ファリティナは再び目を覚ました。
「まあ。お嬢様。」
ファリティナの傍にいつのまにか侍女がいた。
見慣れない顔に、ああ、ここはレミルトン邸だと思いだす。
「ガーゼを取り替えましょうね。」
そう言って侍女はファリティナの背中に手を入れ、起きるのを手伝ってくれた。
涙で濡れてしまったガーゼと包帯を取り替え、温かい紅茶を差し出された。
心が落ち着く、いい香りだ。
紅茶を堪能しているうちに、侍女は静かに部屋を出て行っていた。
「ファリティナはどう?」
ファリティナの部屋から出てきた侍女に声をかけたのは、この屋敷の女主人のミネアだった。
「今日も泣いておられました。」
と涙で濡れたガーゼを見せる。
ファリティナは起きている時に滅多に感情を揺らさない。
ただおっとりと、話に耳を傾けていることが多く、あまり口数も多くない。
ミネア夫人は孫娘を楽しませようと、吟遊詩人を呼んだり、鳥を行商人から買ってきたりしたが、ファリティナは穏やかに微笑んで礼を言うだけで、心からの表情を見せることはなかった。
起きているときは嘆くこともない。
目の使えないファリティナは読書や刺繍を楽しむことができず、買ってやった鳥をぼんやりと眺めていることが多かった。
それでも不満を募らせている様子もない。
毎日会いに来る弟の公子は、長く語らうこともあるが、引き留めることもない。
まるで、感情をどこかに置いてきたような。
そんな生気のない様子が気になっていた。
夢を見て泣いている、と聞かされたのは、ファリティナの様子が気になり始めてからだ。
昼間は泣かないファリティナが、夢を見て嗚咽を我慢するように、静かに泣いていた。
毎日朝にはしっとりと濡れて、取り替えられる包帯。
「私たちには、まだ話してくれないのでしょうね…。」
謂れない罪で死刑囚と扱われたこと。いるだけで苦役だと言われるアーベナルドに放り込まれたこと。
拘束されている間に、最愛の弟が亡くなったこと。
義理とはいえ母親に傷つけられ、失明もあり得ること。
ファリティナが口にすることはない。
こんなに近くにいるのに、まるで王宮の園遊会の時のように、一人置かれているファリティナを眺めているしかない自分が、ミネアは歯痒かった。