57 レミルトン卿3
「わからないの。どうしたらいいの?セリオン。どうしたら…。」
助けることができるの…?
ファリティナが縋るようにセリオンにそう言うと、みるみる涙が溢れてきた。
「姉様。いけない。泣くとまた傷が開いてしまう。」
セリオンはファリティナを抱き寄せ、涙を拭いた。
泣くことが一番傷に血液が集中する。
朝、落涙した時も出血してしまい、随分焦った。出血は少量だったので、そのままレミルトン卿の面会に応じたが、短期間にまた出血すれば回復にどんな影響が出るかわからない。
「…セリオン公子、教えて欲しい。ファリティナに一体何があったのか。この傷は誰につけられたんだ?」
セリオンは苦い顔をしてファリティナの涙を袖口で拭いていたが、やがて軽く息を吐いた。
「…姉様、レミルトン卿を信じましょう。」
ファリティナが涙で濡れた目で見上げた。その頬を優しく撫でた。
「他に打つ手はない。とにかく状況に任せてみましょう。」
ファリティナは軽く唇を噛むと素直に頷いた。その頭を、セリオンは優しく撫でた。
「目を冷やして包帯を替えましょう。信頼できる侍女を一人呼びます。誰がいいですか?」
その言葉で、ディアスはこの兄弟の困難な状況を垣間見た気がした。
この場に母親の公爵代理がいないことも、セリオンが過保護なくらい近く付き添っていることも、あまりにも不自然だった。
「ファリティナ。」
ディアスはファリティナの前に跪いた。
「祖父とはいえ、今まで疎遠にしていた人間に突然言われて驚いたろう。だが、君を守りたいのだ。私たちのたった一人の娘が残した子だ。健やかに、幸せに育ってほしいと願っていた。」
ファリティナは、亡くしたウィンディによく似ていた。
髪の色と瞳の色はグランキエース公爵家に引き継がれる、薄い金色の髪とブルーグレーの瞳だが、顔立ちを近くで見るとウィンディにそっくりだ。
華が咲くような美貌のセリオンと、比べると見劣りするだろう。だが、ディアスにとっては愛しく懐かしい面影だった。
「私たちを頼ってくれ。こんなことは言いたくないが、今の公爵代理ではこの王国の盾となり得ない。だが、グランキエースはこれからも王国の盾でなければいけない。まだ若い君たちが身を寄せ合って荒波を渡っていけるほど、現実は甘くない。この老獪に任せなさい。」
ディアスの言葉を素直に聞きながら、ファリティナはぼろぼろと涙を流した。
「卿、どうかそこまでに。今は傷に障ります。」
セリオンが静かに言った。
「セリオン公子。この傷は誰に?」
「…私の母親、公爵代理です。」
セリオンの苦い声が静かに響いた。
××××××××××
部屋に呼ばれた侍従は3人だった。
その中の一人、執事長にセリオンが聞いた。
「まだ、気づかれてないか?」
「はい。まだおやすみ中です。」
公爵代理の事だとディアスはわかった。この面会も母親に知れるとまずいのだろう。
ファリティナは連れてこられた侍女に濡れた布を充てられて椅子に寄りかかっている。
やはり傷が開いたようで、右目からは血の混じった涙が流れていた。
目の横にかけての殴打の痕も痛々しい。セリオンは公爵家の侍医を呼び出すように指示した。
「婚約を解消されたことに怒って殴られたのか?」
ディアスは小声でセリオンに聞いた。
「それもありますが…。」
セリオンは歯切れの悪い言い方で留めた。
逡巡するように沈黙し、やがて口を開いた。
「正直、ファリティナを嵌めたのはあなた方だと思っていました。」
そう言って、セリオンは当て布を押さえるファリティナの手に、自分の手を添えた。
そして凭れていた方とは反対に、自分の方に体を凭れさせた。
ファリティナはおとなしくされるがままになっている。
「なぜ、私たちだと?」
「私怨があると思っていました。」
ファリティナの生みの親の事だ。
ディアスは息を吐いた。
「…済まなかった。」
見ないようにしていたのは本当だった。
せっかく生まれてきたファリティナを、見ないようにしていた。だが、ファリティナ自身を恨んだことなどない。むしろ不憫に思い、大人同士のいがみ合いに巻き込まぬように距離を置いたつもりだった。
「だが、嵌めた、とは不穏な言い方だ。」
「ファリティナは何もしていませんから。噂に乗じて拘束されたことをいいことに、あなた方がファリティナに死の恐怖を与え、あわよくば死ぬことを願っているのだと思っていました。」
「…なぜ、我々がそれほどのことを。」
さあ、とセリオンは澄ました顔でディアスを見た。
「人の心の中は計り知れない。私たち子どもの世代には、親同士の怨恨などあずかり知らぬことだ。だけど、姉の状況を見れば、そう考えてもおかしくない。」
「一体何が…。嵌められたとは、ファリティナは全くの無罪なのか?」
「私はそう思います。反証でも出しましたが、昨年1年間、姉はほとんど学院に登校していません。弟の看病のためにほとんどの時間を使っていました。それなのに執拗に女生徒を追いかけ回し、嫌がらせなど。」
「そんなことは調べたらすぐにわかる。だが、審議もされないまま刑務に回され、囚人として扱われた。刑務を司るコンスル公爵派が動いていると考えてもおかしくないでしょう。ファリティナがあなた方から狙われるなら、理由はレミルトン家との確執しかない。」
「審議もされずに、公爵令嬢を囚人とした?そんなバカな。」
「ですが事実です。最初はアーベナルドの最地下に入れられ、あまりの処遇にギデオン王子が王宮の西棟に移しました。」
やはりレミルトンではなかったか、とセリオンは冷静に思いながらファリティナを撫でた。
すぅ、と気持ち良さそうな寝息が聞こえて、思わず呼びかけた。
「ファリティナ、寝ているんですか?」
ふと、ファリティナが身じろぎをした。
目は当て布で隠されているのでわからない。
「…寝てないわ。」
いかにも眠そうな声で答えた。
「いや、寝てたでしょ。」
「…寝てない。」
セリオンは思わず笑いが出る。
この深刻な状況で良く寝られるものだ。
「眠いならお部屋に戻りましょう。」
ファリティナは少し、首を傾げた。
そうね、とのんびりした調子で答えて、
「眠ってたかも、しれないわ。」
ふふふ、とセリオンは堪えきれず笑ってしまった。
ディアスも呆れたようにファリティナを見ていた。
「レミルトン卿はお帰りになったのかしら?」
「まだ目の前にいらっしゃいますよ。」
セリオンが笑いを噛み殺しながら言うと、あら、と恥ずかしそうにほんのり色づいた。
ディアスも笑ってしまった。
「なんとも、のんびりした子なのだな。ファリティナは。」
「ええ。可愛い人なんです。」
セリオンが惚気るのを、エイデンは雷に打たれるような衝撃を受けた。
あの冷血漢のセリオンが、あんな甘い顔で、あんな甘い言葉で人を表現するなんて。
兄弟に対して愛情を注いでいるが、ファリティナに対しては兄弟の枠では収まらない愛情を感じる。
屋敷に帰って以来、セリオンは足繁くファリティナの部屋に通っていた。
主人たる令嬢の部屋なので、エイデンは入室していなかった。
時には長い間、話し合いをしていたのは、罪人として堕とされたファリティナの処遇を説得しているのだと思っていた。
レミルトン卿の面会に、恭しくエスコートをして出てきた姿にも驚いた。
噂とは随分違う。
エイデンはつくづく思った。
怪我のせいもあり、ファリティナは弱々しく、高飛車な態度は似合わない女性のように思った。
噂にあるような苛烈さは感じず、だが、高位貴族としての凛とした佇まいは無くさず。
セリオンのような煌びやかな貴公子に侍られても、厳しく躾けられた侍女たちに傅かれても、己を失わないしなやかさがあるように感じた。
そしてセリオンの態度。
唯一無二でセリオンが守りたいのは、弟妹ではなく、ファリティナだった。
その寵愛を見せつけられて、呆然としてしまった。